井伏鱒二の詩「逸題」の中の「われら」の解釈
10月7日、当日記の「勉強・資格」のカテゴリーに「中秋の名月について」という投稿がありました。そのなかに、井伏鱒二
の詩「逸題」が引用されていました。「今宵は仲秋明月 初恋を偲ぶ夜 われら万障くりあはせ よしの屋で独り酒をのむ」
投稿者は、「われら」万障くりあはせ 「独り」酒をのむ、というのには違和感がある、というのです。われらの「ら」を複数に
とっているわけです。
これに対し、私は次のようなコメントをつけました。
井伏鱒二は、詩の表現として古い言い方を使ったのではないですか。昔、高校の古文の時間に、「憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も吾を待つらむそ」という短歌を習いましたが、この「憶良ら」の「ら」は、複数を表しているのではありません。「憶良め」と同じで、謙譲の意味を表しているものです。今も、歌の文句に「おいら」というのがありますが、これも、「複数」をいっているわけではありません。
井伏鱒二は、自分一人のことを詠んでいるのであって、、名月に複数の文士が集うて、それぞれが一人酒で、初恋を偲んでいるわけではありますまい。われら=おいら=私め と解した方が自然ではないでしょうか。
このコメントに対し、投稿者は納得していません。しかし、ネットで検索しても、この問題にズバリ答えているものは見当たりません。どなたかお知恵をお貸しください。
ペンネーム:質問者 (匿名希望)さん
人間年をとってくると、柔軟性にかけ、自分の考えに固執し、おれがおれがの自惚れに埋没しがちです。最近の「日記」への投稿を見て感じますが、自分も、他人から見ればそうなのかと、自戒することしきりです。
閑話休題。井伏さんが生きていたら、どういう状況で作詩したのか、或は、作者としては、どういう気持ちで作ったのか、聞いてみたいものです。