戦前・戦中頃の壬生城の失火につい てご存じの方はありませんか
97歳になる義母の記憶です。
義母は我が家から徒歩5分くらいの有料老人ホームへ入っていますから、私たちは3日に一度くらいは義母を訪ねてます。義母は私たちへのご機嫌取りの気持ちもあるのでしょうが、話はいつでも私たちの見合いのために実質 仲人の大学の先生と両家で茨城県袋田の滝へ行った思いでばかり話してました。
ところが、最近は娘(わが妻)にも余り話さなかった、自分の育った家、栗や柿がたくさん実る栃木県壬生町の大きな農家で壬生城の近く、誠忠神社の祭りでは鎧・兜で行列して … 等の話をするようになりました。
私は義母の頭の体操のつもりで毎回 同じ事を聞き出し、繰り返させています。
私の調べでは壬生城は小さな城だけれども、将軍が日光社参の時 立ち寄る重要な城で、戊辰戦争では壬生藩は官軍方に付いたけれども、廃藩置県後は「城は不要」として破却された事になってます。
しかし、母は「壬生には城があったのだけれども、私が女学校の頃、誰かが失火で燃やしてしまった。私はまもなく四国徳島までお嫁に行ってしまったけれど … 、それで壬生には自慢できるものが何もなくなってしまった」というのです。私は「ふーん、そうなんだ。残念だったね」と受け止め、でも、今は東京のおもちゃ工場団地が移転してきて壬生は「おもちゃの町」になり、かんぴょう も 切り花 も、自慢できるものは一杯あるんだよ。と教え込み、この頃ではそれも覚え込みました。
それにしても、本当は明治か大正の頃、壬生城址に観光的な天守閣か何かあったのでしょうか。分かったら、それも義母に教え込んであげたいです。開戦直前の頃、壬生城址であった火事のこと知っている方がおりましたら、教えて下さい。本当は義母の記憶混濁で壬生城址には何の建物もなく、火事もなかったのかも知れません。そんな様子でも知っていたら教えて下さい。義母にはがっかりさせないように上手く話します。
余計なことですが、義母はその火事の少し後で徳島女学校兼女子師範学校の教員になる義父の嫁になって徳島へ渡り、次は埼玉の粕壁中学へ、次は都内の中学へ転勤して、中学が新制高校となり、都立高校の教員になる夫の専業主婦として過ごしました。徳島での生徒には瀬戸内寂聴さんがいたそうです。
(7月24日 19:23 追記:)
先日、私の実家へ帰る途中、前の帰省からずいぶん時代が過ぎていたので、北関東自動車道が整備され、壬生のハイウェイオアシスを通ることになりました。
そこで、壬生城址に歴史資料館があることを知り、問い合わせたところ、すぐその場でではありませんが、昔の事情をよく知る人を紹介され、事情を教えて頂くことが出来ました。
壬生城は確かに明治維新で破却されましたが、その城址に大名家の古文書や宝物を収める収蔵庫と管理人住宅が作られていたそうです。それが70〜80年前に失火で失われたそうです。それが義母の女学生時代です。
終戦直後、跡地に新制中学校が作られ、中学校が移転した跡地には歴史資料館が作られたのだそうです。
一緒に考えて下さった皆様、ありがとうございました。
ペンネーム:ヤスオさん
ただ、私が知りたかったのは明治維新の壬生城破却後、城址に造られた建物がなかったかどうかです。
今、大河ドラマで話題の上田城も関ヶ原の直後に破却させられました。しかし、真田信之に与えられた領地は上田から沼田にわたるもので、しかも、上田分の方が多かったのです。そこで、信幸は沼田城主ながら上田城址に館を造る許可を得て、ここを中心に領地を治めたのです。沼田城代には嫡子の信吉を入れました。
これと似たようなことで、壬生城址にも城破却後 廃藩置県まで、藩内統治のため館が造られたり、観光的な天守閣が造られたり、公民館が造られたりしたのではないかと想像します。
母の意識の中では、お城の建物と武者行列が、壬生町の誇れるものだったようです。
母の意識は混濁していますから、勘違いがあるかも知れません。しかし、私にとつては現実がどうであっても、それほど問題ではありません。介護ホームに入って外出は出来ても1時間以内(それ以上だと母が不安に陥る。車の乗降もなかなか難しい)の母の、若い日の思い出を出来るだけ生き生きと輝かせてあげたいだけです。
ペンネーム:トチギさん
旧暦の8月1日。 鳥居元忠の命日。
壬生町には、他に2つの城があったのですが・・・詳しいことはわかりません。
今は、城跡です。お母様が若かった頃に、お城を見たのは、おそらく、合っていると思います。
ペンネーム:ヤスオさん
義母は兄弟姉妹の3番目で、兄は自転車で栃木の中学校へ通ったそうです。自分も栃木の女学校だけれども、女だから電車で通ったそうです。姉は宇都宮の女学校で …
その兄は、結核で若くして死んでしまったそうですが、姉も妹もみんな嫁にでていますから、多分、嫁を貰って跡継ぎを作るまでは生きていたのでしょう。その兄の鎧・兜姿がとても凜々しかったそうで …… 義母は、娘(私の妻)にも、実家のことを余り語らなかったので、分からないことが多いのですが、5人姉妹の仲はすごく良くて、姉妹会旅行はかなり高齢になるまで続けていました。姉妹(私たちの叔母)については前々からよく話してくれてましたから、実家の嫁との関係で難しいことがあったのだと想像します。
たまたま、私の実家でも長兄の嫁との関係が難しく、兄は妻にいじめ殺されてしまったような感じで、兄弟姉妹は実家とは親戚づきあいを絶っています。
義母は今、幼時の事を楽しく思い出している状態です。父は大地主で、近所の小学校の校長で、母(私の妻の祖母)は義母が女学校を卒業して嫁にでる直前に、誰かから貰ったカニ缶を食べて食中毒になり亡くなったそうです。
なんだか井上靖の「しろばんば」の世界みたいですが、真実からは少し違っているところがあろうとも、母の話を聞き出して、物語を完成させてやろうと思ってます。
幼時の思い出を紡いで、楽しい一つの物語に仕上げていくことが、認知症になってしまった義母の「頭の体操」になると思ってます。