信仰心
なぜ、皆さんは宗教を信じるのか、私にはわかりません? なぜなら、いま地球上にあるすべての宗教は、人が作ったもので、神がつくっものではないからです。また地球上に神は存在しません。 人が感動したり、尊敬したりするのは、その人の人生経験からの言葉に心が動くからであって、神の言葉ではないからです。信者の方の意見を聞きたい。 ただし、現在ある宗教団体に属しておられる信者の方を、否定したり、バカにしたりする気はありません。
なぜ、皆さんは宗教を信じるのか、私にはわかりません? なぜなら、いま地球上にあるすべての宗教は、人が作ったもので、神がつくっものではないからです。また地球上に神は存在しません。 人が感動したり、尊敬したりするのは、その人の人生経験からの言葉に心が動くからであって、神の言葉ではないからです。信者の方の意見を聞きたい。 ただし、現在ある宗教団体に属しておられる信者の方を、否定したり、バカにしたりする気はありません。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
宗教はただのスタイルであり組織でしかない(何種類あるのかな・・・)信仰心は、だれに教わらなくても自分の中から出てくるもの。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
> ただし、現在ある宗教団体に属しておられる信者の方を、否定したり、バカにしたりする気はありません。
それで充分なのではないでしょうか?
わからなくても、理解できなくても、異なった考えの人を受け入れるかどうかが
一番大事な姿勢であり、あなたの人間としての能力が試されているような気がします。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
地球上と限定しておられますが、宇宙空間を含めれば神の存在を認めても良いという事なのでしょうかね?
このような問題は物証が無い為、所謂水掛け論に終始しますから、ある意味時間の無駄かも知れません。ですが、創造主たる神を信じない心は寂しい。その上、傲慢かもしれない。何故なら人間を最上の生き物と考える事こそが。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
信仰ひとつでタクシードライバーさんの運転する車が、
凶器にも便利なものにもなる、という感じですかね
こわや、こわや
(丑)
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
”宗教 = 行動の規範” だと私は理解しています。また”神 = 宇宙の真理” だと考えています。
宗教を信じているとご利益があるとか、神様が奇跡を起こしてくれるとも考えていません。勿論神様が言葉を発するとも思っていません。
ただ人としての行動の規範を示す意味での宗教はないよりあったほうが良いと思います。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
神を信じると裏切られ、失望することばかりです。
世の中には人智では理解できない不思議な力も認めますが、決して勧善懲悪的な事ばかりではありません。
天網恢恢疎ににして漏らさずと言われるが、すべてには当てはまりません。
私は世の中の理不尽、不条理を見て「神の不在」「神の不完全」を主張しているのですが、このような意見は概ね「罰当たり!」として非難されます。
私の考えを信仰深い人が、熱心に説得して覆そうとしますが、それは不可能というもの。
そんな私でも天地や人体の巧妙なメカニズムにはさすが神秘を感じます。
神がいるとすれば、宇宙の創造者としてのパワーそのものですかね。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
皆様のお説’なるほど’と伺っております
神様は人間が作り出したお説、同感です
以下、私の個人的な考えで、正しいかどうかは解りません
例えば、現在の様に太陽と地球と月の並びによる現象を「日食と言います」と上手く説明できない状況で、聞いた民衆も理解できないとしたら、
天照大神、手力雄の尊、と言った神々の仕業と説明する、とか、
子供に、悪い事をしてはいけないよと言い聞かせても理解できないでしょうから、神様の罰が当たるよとか
人が亡くなったときには死に神が迎えに来たとか、いろいろな神様ができたのでしょう、
勿論、天から、蜘蛛の糸を垂れてくださる様な、救いの神様も出来たでしょう、
海の向こうでは、懺悔をすれば何でも助けてくれる神様も、
仏様は、平民でも亡くなると「成仏する」と言います、こちらは人間、自分が死んだら仏に成って皆の衆を助ける役にまわる様に思いますが・・定かではありません
いずれにしても、清く、正しく、美しく生きるための心構えを説くために、分かり易く説明する道具と言っては語弊がありますか、手法、として用いたのではないか?
まさに、神様が直接お話なされたのでは無いでしょう、人間が神様の気持ちになって言ったのでしょう
そうして、同じ考えの人、賛同する人が集まって、宗派という形態をなした、と思っています
そこで、自分の考えに近い、納得できる説を受け入れればよいわけで、それがなければ参加しないつまり宗教、信仰の自由、ではないかと ひとり合点しております
乱文ごめんなさい
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
質問者さんは「信者」のご意見を求めてらっしゃるので、ちょっとそれに反するかもしれませんが。
神や仏が存在するかどうかは別にして、一般的に言う「宗教」は人間が作り出したものだから、もし神が存在するものだとしても、神とは別のものをありがたがっているにすぎないと思います。
もともと抽象的なものであるのに、無理やり人間の言葉で語ろうとすること自体が間違っているんじゃないでしょうか。
SF映画などで、宇宙人がいきなり日本語でしゃべっていたら、滑稽だと思う人もいれば、何とも思わない人もいるでしょう。
ボクは宇宙人は存在するとは思いますけれど、地球にやって来て、地球の言葉でしゃべったりしないだろうと思う方の人間です。
宗教もそれと似たようなものだと思いますね。
すべては「はじめに言葉ありき」です。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
私も若い頃は無信心でした。
人生にはいろいろな事が起こりますね。
子供が受験するとか、親や伴侶など身を裂かれるほど辛い経験もします。重症の病人を前に何かに祈りたい気持は
無理もないでしょうね。たとえ願いは叶わなくても。
そんな時、何かにすがりたい気持になります。
そして、神仏でも(私の場合はご先祖さまや自然)
お守り下さると信じて暮らすと心が安らかになります。
夫の供養は昔からの宗教ですが今では自然に手を合わせ
日々無事に暮らせることをありがたく感謝してます。
この感謝の気持は神仏でなくても出て来るのかも知れませんが、心のよりどころとして私は仏壇に朝夕手を合わせます。
新興宗教の悪質なのは絶対許せません。
80才過ぎた方から姪が癌が治ると信じて350万円騙しても取りました。
もちろん、癌は進行中で骨盤に達しています。
こんな、病気治る、受験が成功するなどとお金目的の宗教は
絶対信じてはならないと、又お金を多額要るようなのは始め
から無視しましょう。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
神様や仏様を、信じるか信じないかは自由です。
神は信じる人には存在していますし、信じない人には存在しているようには見えないだけです。
大昔、人は自然の脅威を、今の人よりもずっと強く感じていました。自然の前には無力だったのです。自然を動かしている存在を神と名付けました。
身内の誰かが亡くなったとき、その人はどこに行くのだろうかと思いました。
そこから神が始まったのだそうです。
最初は亡くなった人が、食べるのに困ってはいないかという危惧から、お供えをしました。
エジプトのピラミッドに収められたミイラは、
肉体を損なわない限り、また死んだ人が生き返ってくるという思いから、作られたと聞きました。
人の想像力は何もないところから、自分で創りだすことは不可能だそうです。
ですから神が創造されたのではなく、今では考えられないでしょうが、もっと神が身近であったと考えられます。神のような人がいらっしゃったという意味です。但し、これは神ではありません。
宗教の始まりはインドからです。
インドで今も伝えられていますヴェーダという聖典は、4つに分かれていますが
“リシ”と呼ばれる聖者が、直接に神から聞いた言葉からなっているそうです。
神を信じている方は
「神は見ることが出来る。今、私があなたを見ているように。」と言われても信じます。
信じない人にとっては、きちがい沙汰でしょう。
ですが神のお姿や、神のお言葉も、信じる人にとっては、見ること聞くことのできる実在なのです。
色々な宗教が、世界にはありますが、みんな同じ方向を目指しています。
信じられないかもしれませんが、みんな清らかな存在に近づこうとしているのです。ただその段階に違いが有るだけです。
神の存在を各宗教では、イエス・クリストと言ったり、アッラーと呼んだり、ブラフマンそして仏陀と申します。
ただ一つの存在が有るだけで、名前が違うだけです。
それは、水のことを、ウオーターや、オー(eau)と言うように各国の言語で様々な呼び名が有るのと同じことです。
宗教を否定なさるのは自由です。
でも宗教を信じている人を、間違っていると思うのは自由とは言えません。
宗教を信じない人が、他の何かに楽しみを見出されても、私は何も申しません。
その代わり、宗教を信じている人のことも認めてあげるだけの、心の余裕をお持ちください。
最後までお付き合いくださいましたこと、感謝いたします。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
「信仰心」
活字通り、「心」のことについての想いは人それぞれ。
人さまの心の中に、土足で踏み込むのは誰にも許されてない。
「神」云々を問うのは、余計なお世話以外のなにものではない。
ちなみにワタシは無信心の輩デス。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
昔は現代のように法整備が整っていなかったから、社会規範として宗教が必要だったのだと私は考えます。
もちろん現代でも宗教は必要でしょうが、あえて誤解を恐れずに言わせて頂ければ「会社組織のようなピラミッド型の人的組織を余りに重要視する宗教」や「やたら金がかかる」のは本来の宗教ではなく、ビジネスだと思います。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
無条件に信じる、これこそあらゆる宗教が人々を説得しようとする共通点であり、すべての出発点でしょう。
神の存在ほど、証明できない、人の英知の届かない違う次元の認識だからこそ、それを神と呼ぶ事により、神格化したにも拘らず人の姿に擬してしか認識できないのが「神」
だからこそ、どこまで行っても人が作った「神」しか存在しないのです。
だからこそ無条件に信じろ?
冗談じゃない!解らないものは、解らないと言うのが、最も正確な認識ですよね?
無条件に信じた後に何が待っている?
信じない者に対する、差別,蔑視、救われない者(地獄行き)、迫害されてしかるべき輩、
エスカレートすると抹殺してしかるべき畜生。
現在地球上でおきている、殺戮の嵐は、神の存在の否定か、神の存在の肯定か、二者択一から起こっているのではないかな?、
胸を張って、態度保留!!!!
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
うちのなか、鰯の頭だらけです…www。
最近鰯も高いので、時々鯵の頭でも代用しています。
勿論、身の方は酒と一緒においらの腹の中です。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
確かに神は存在しないと思います。。。でも極限の中で修行(苦行)積んだり、時の権力に迫害(民衆と共に)を受けながら悟った(経験訓みたいなも)部分の文言等に共感するところから宗教に帰依するものと理解しており。。。決して盲信するものではないと思っております。
世界には数多の宗教宗派があり、自らの宗派のみが最高として教え込まれ、他派は理解されること無く敵視され、迫害や殺戮の対象にされ、終わりのない宗教戦争が洋の東西で続いております。
幸いに日本国民は多神教に寛容で、宗教戦争と言う不幸には見舞われない、世界唯一の国家と言われております。
万物の神々(生命の源)に感謝(祈り)をささげながら平和を享受できる平穏な日本こそ世界紛争の調停に奔走すべき時代に来ているものと強く思っております。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
宗教というより、信心という行為ではないでしょうか
宗教を信じるというよりは私たち人間以外の尊い存在を
畏れ敬う事が大切なんですよ
質問者様は宗教を信じられないとの事ですが
神社への参拝やお墓参りもされないのでしょうか
古来日本人は救いを求める為に神を敬い信じてきました
人の道を説く際も悪いことをしていると
御天道さまは見ているよ と
良く言ったものです
信心の心が無くなってしまったら
無宗教であるとしたら
ご先祖様を供養することもできなくなってしまうのでは
ないでしょうか
今、靖国の宮で眠っている英霊に
私たち世代が胸を張って
日本は神の国だと言えるように
なることが大切だと思います
私は特にどこかの団体等には属していません。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
う〜〜〜ん
政治の話と宗教の話はこのような場所では、なかなか馴染まないんですね。
語るべきことが多すぎることと対話をある程度続ける必要があるんですね。
多分このQ&Aがパンクしても終わりは来ない程度に話しをする覚悟があるならばそれもいいんですけど・・・・・。
単なる、書き放しの応酬では収拾が付かないと考えます。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
神は、個々の人の心に存在しています。
当然、質問者さんの心にも宿っていますよ。
ただ質問者さんが、気がつかないだけです。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
宗教が人の作ったものと言うのは、だいたい正しいと思います。
しかしそれと、神が存在しないということは論理的には結びつきません。いるとかいないとかは、誰かがそう思うということとは全然別だからです。
神がいない証拠がない以上は、神がいないと信じているに過ぎません。
もっとも神がいるという証拠がない以上はいると信じているに過ぎないのですが、状況証拠ならありますよね。その極端な証拠の一つが人間の存在です。
ブレーズ・パスカルは論理的な存在証明(非存在証明)ができないため、確率論で神がいるほうを選びました。
いないと思っていてもしいたら、それが死後にわかったとしたら、その損失は無限大であるのに対して、いると思って死んでも何の損失もないというのがその概略。
なんにせよ、いないと決め付けるのは非論理的でしかないと思います。
パスカルより自分のほうが賢いと考えるかどうかが一つの分かれ目かもしれません。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
私もタクシードライバーさんに同感です。
宗教というか団体は利権集団だと思っているし。。。
、、、、、あ〜ぁ。敵を作っちゃったなぁ。 ^^;;;;(汗)
でもね。
創価学会の友人が、
理屈じゃないのよ、子供の時から、
御本尊様を拝んできたの、、と聞いたとき、
理屈抜き、ふと羨ましく感じた事があります。
(別に創価学会の肯定ではないです)
心のよりどころが自身を救うものになっているのなら、
それは否定する気持ちは私にもないんです。
私にとって、心のよりどころは、
宇宙刑事シャイだーのテーマソングの中にあります、
強いやつほど笑顔はやさしい、だって、強さは愛だもの。
お前と同じさ、にぎった拳は誰かの幸せ守るため。
倒れたら立ち上がれ、誰よりも強くなれ〜♪
私、自分の中の何があっても立ち上がれるエネルギーを信じているも〜ん。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
そうです。 全ての宗教は 人間が創った物です。
ですから、イカガワシイものも多くあります。
どの宗教にも教祖がいますが、共通しているのは
私自身が神だとか、創造主とかは絶対言いません。
言ってしまうと おしまいだからです。
人間に無い 絶対的な神仏の主の存在を匂わせて
自分は その 主の使いである。 と言って
信者を納得させるのが 常道手段です。
これを通じて心が綺麗になるのなら良いではないかと
言う 信者がいます。 人それぞれです。
勝手にやってもらおうでは ありませんか。
確かな間違いは教祖自身を妄信する行為です。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
私は無宗教ですが勉強はしています。
人の思いとして「安心・平和・幸福に生きるための
ひとつの指標」が宗教であったりすると思います。
私は個人的に「真理の探究の一環」で宗教団体の人々と分け隔てなく会話し少しでも学べたらと思っています。
人は緊張(テーマ)から弛緩できる(安心)を望むのは至極当然と思います。
神の存在について、政木和三(元阪大工学部センター長)も
指摘されているように存在します。
船井幸雄さんもグレートサムシング(偉大なる何か)という表現で認めています。
超常現象は現実思考周波数のベーター波領域では
感じることができないのです。
無我、超愛の周波数のシーター波に自分の脳波ができないと受信できないのです・・・
チャンネルがありその周波数に持っていくひとつの手段が
瞑想であったりします。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
>その人の人生経験からの言葉に心が動くから
これこそが宗教の始まりなのですが(笑
いや、けっしておちゃらかす意味ではなくてね^^
私はみんな自分のなかに『自分教』作るといいと思います。
神の言葉を語るのもいいけど、やっぱ、自分の心に聞くのが一番だし、結局そうするしかないのよ。
ねば〜る君は、どうしてあんなに伸びるのですか? (12月31日 23:25 追記:) http://m.youtube.com/watch?v=hv3IJm2KSNU
景気拡大策→公共工事→地球環境の破壊→二酸化炭素の増加→国債による借金増加→近未来の国民への 待った無しの資産収奪 デフレの脱却→物価の上昇→賃金の増加かどうか雇い主の意思=国際経済の動向しだい株式や土地のもっている人には恩恵→政府も郵政等いっぱい株式持っている...
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