天智天皇が戦争責任を追及されなかったのはなぜか。

『天智天皇は説明するまでもなく、中大兄皇子の事であり、中学時代に習った歴史では、
645年中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変)。孝徳天皇を即位させ、自分は皇太子となり中心人物として大化の改新を行った人。
 
 古代史研究を始めて、百済が660年に滅ぼされたため、朝廷に滞在(人質)していた百済王子の扶余豊璋を百済国王に任命したという形をとって、百済救援を指揮するために斉明天皇と共に筑紫の朝倉宮に滞在し、百済復興を図って663年に白村江の戦いを起こすも敗戦した事。
 彼は、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制し、白村江の戦いで大敗を喫し