大阪冬の陣について

大阪冬の陣では、家康の砲撃作戦で城中にゆさぶりをかけ、和議を結ぶこととなりました。
 和議の条件の中に「城中二丸石垣・矢倉・堀巳下・秀頼より人数を以て、これを壊し埋むべし」として「惣堀」を埋めることとなっています。
 一般的には、家康が「惣堀」を「総堀」の意味に曲解して、外堀埋め立ての余勢をかって、豊臣側の制止を無視して強行的に内堀まで埋め立てた。と語り伝えられています。
 ところが、細川忠利・浅野忠吉・毛利輝元などの書状あるいは、「大阪御陣覚書」などには、二の丸、三の丸の埋め立てについては、豊臣方の手で行うことになっていたようです。しかし、その工事がな