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よくあるご質問

クラッツアーさんの手記を訳してみました。

Egon Edler von Kretzerさんの手記を昨年完訳しました。

1940年1月「TOURIST」に寄稿された「Skiing in Japan 30 Years Ago」です。

 
手記の内容、ほんの少しですが記してみます。
 
 来日の1909年12月、「最初のスキー旅行」
「御殿場では富士屋旅館に泊まり、翌朝私は日本に於ける最初のスキー登山に向かった・・・」
 「富士山は深い霧に覆われ・・・突然霧の合間から富士の鋭峯が眩しいばかりか美しい姿を表した。・・・私は無上の幸福を感じた。この壮大な斜面の中でスキーを楽しめるとは何たる喜びであろうか・・・」と述べている。

 富士を目指したスキー登山は、おそらくは、太郎平辺りまでの登行だったのでしょう・・・。
 御殿場には当時のスキー行を記念したプレートが、今も残っているはずです。
 
 1910年「スキーの製作と販売」
 勤務地横浜で母国から持参したスキーを見本に、家具職人にスキー板を、締め具は鍛冶屋に製作を依頼している。・・・。
 「私の使っているビンディグはアルパイン・リリェンフェルトで、これは、私のスキーの先生、アルパインリリェンフェルトスキーの創始者で世界的有名なマチアス・ズダルスキーが発明したもの」と・・・。
「スキーの注文が増えたが、製造経験が不足で完全とはいえなかった」
 販売は「ジャパンポスト」「ジャーマンウィークリー」当時の英字新聞等に広告を掲載、広く通信販売を計ったとも述べもている。

 1911年4月「富士山スキー登山の試み」
 あの有名なレルヒ少佐を誘い出し、富士山スキー登山に御殿場から挑戦する記延べでは・・・・。
「私は彼と一緒にスキーで富士山に登ってみようと誘ってみた。」・・・
「八合目到着は予定より長時間を要してしまった」・・・
「然しながら私は日本に於いて、かくも高所にスキーで登行した二人のスキーヤーの、其の一人であることに大いに感謝している」・・・。
 
 レルヒ少佐の日記と、クラッツァーさんの手記、合わせて読んでみたけれど、文章に同色する場面がやや少ないのがなんとも気がかりで、理解に苦しみます・・・。

レルヒ少佐の日記では
「かねてから富士スキー登山には是非同行したいと、私に頼んできた横浜のクラッツアー君を誘った」・・・と述べている

 
 大正時代初期、五色温泉にスキーゲレンデ開発
 クラッツァーさんを中心とした外国人による五色温泉を基点とした周辺のスキーコースの開発について、当時の様子が写真から詳しく伺い知る事が出来ます。 

 手記の中に延べられている事柄等、埋もれてしまうのは惜しい、日本スキー史上に残る事実として、後世に残すべきでしょう。

 1909年26歳の時に来日、1956年帰国するまでの48年間を日本で過ごした事になります。
 
 2011年2月9日の日記「レルヒ以前」の中でもクラッツアーさんの事を少し述べています。

 何れどこかで機会があれば、訳書を提供したいと思います。

写真・1940年「TOURIST」に掲載された手記をコピー。
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カテゴリ:スポーツ・アウトドア・レジャー

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