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よくあるご質問

朝日新聞は何故共産主義の影響を深く受けて来たか?

朝日新聞は共産主義者が権力を握っていたのです。
中国の共産主義を賛美するのは当然なのです。
ご一読下さい。

http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/virus/v-asahi-2.html より転載。
  日本を占領したGHQ(占領軍総司令部)は、敗戦の翌年1月(1946=昭和21年1月)、指導層を一掃するために「公職追放令」 をもって軍人(少尉以上)、軍国主義者とみなされた政治家らを公職から追放しました。翌1947(昭和22)年1月には言論界、財界、地方公職なども対象を広げ、これにより追放された数は合計21万人に上ったとされています。
 言論界からも多数が追放され、追放を免れた人の多く(80%説あり) が、左翼または左翼のシンパだったといわれています。占領軍の政策は当初、労働組合の結成を促進することでしたので、1947年8月には日 教 組が、また産業界などと並んで新聞業界にも組合が誕生します。もちろん追放を免れた人が組合結成を主導したわけですから左傾向が強くなって当然でした。
 朝日新聞でいえば、地下に潜入していた聴濤 克己(きくなみ かつみ)が復帰、「ゾルゲ事件」 と連座して退社した田中 慎次郎 ももどってきました(再入社)。また後にマルキストであったと自ら認めた森 恭三 (広岡社長時代の論説主幹)も社内影響力を強めます。
 聴濤は後に日本共産党中央委員、アカハタ編集長、同党衆議院議員になっていますし、田中 慎次郎は同じ朝日記者出身で、満鉄に在籍していたコミンテルンのスパイ・尾崎 秀実(おざき ほつみ)に軍事機密を流したかどで検挙される経歴を持っていました。その田中は朝日復帰後、出版局長に昇進し「朝日ジャーナル」 を創刊(1959=昭和34年3月)、「全共闘の機関誌」などと一部で批判はあったものの部数を伸ばし、最盛期には8万部を超える勢いだったと記憶します。
 1945(昭和20)年11月、「(朝日)東京本社従業員組合」が結成され、委員長に選ばれたのが聴濤 克己でした。そして組合を舞台にして、後に広岡時代を築いた広岡 知男らが頭角を現わしてきたのでした。
 一方、社主家にあたる村山長挙社長、上野精一会長、編集幹部はというと、公職追放令が出る前に社内で「戦争責任」を追及され、朝日を事実上、追い出されています(表向きは総辞職)。村山、上野の2人が公職追放となったのは1947年10月のことでしたから、厳密にいえば前社長、前会長のときでした。
 そして組合の選挙で長谷部 忠社長以下の経営陣が選出されました。ですから、経営陣は組合の強い影響を受けざるを得ず、左翼路線を走るのは当然の帰結だったといってよいでしょう。

カテゴリ:ニュース・その他

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