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よくあるご質問

ロシア史の中のロシア人

2、 ロシアの建国
 このことについても、3つのことを話したい。
 ロシアの建国の時、タタールの支配・くびきの問題、最後にモスクワ「第三のローマ」論。
 ロシアは、900年頃に生まれてくる。もともとはスラブ人の起源には定説がないということだが、紀元10世紀頃キエフ国家の建設がある。キエフは黒海とバルト海の交易路の要衝であった。
 杉浦先生はここで、デフォルメされた世界地図を白版に書かれた。紀元後1000年くらいのヨーロッパはどんな様子であったかというと、ド田舎であった。見るべき産業は何もない。僻地中の僻地。
 ではどこが発展していたかというと、中国とインド、もう一つはアラブ(イスラム)世界であった。ここではいろんな王朝が繰り返されたが、この三つの文化と経済の中心が富の交流を行っていた。
 シルクロードからアラブへ行って、インドを結ぶ三角形が交易の大動脈であった。
 当時、アラブ人が商業活動を牛耳って交易を支配し、ヨーロッパは田舎なのでその富のおこぼれを地中海沿岸から得ていた。
 地中海がヨーロッパのメインルートであったが、スペインの外側の海は波が荒く、10世紀頃の舟では難破してしまい、イギリスなどは絶海の孤島で、こんなところに行く商人などいなかった。
 地中海ルートの次にどこに行くかというと、黒海に流れ込む川が何本かあるが、小舟でこの川を遡り、源流が切れたところで舟を人間が運び山を越え、バルト海に注ぎこむ川に乗ってバルト海に出ていた。
 これを連水陸路という。ヨーロッパ第二の経済ルートは、黒海とバルト海を結ぶルートであった。
 バルト海の沿岸を発掘すると、アラブ商人がバルト海に行っていたことから、今でもアラブの貨幣がごろごろ出てくる。
 ヨーロッパでイタリアルネッサンスが盛んになっていた次にどこが発展していたかというと、バルト海のハンザ同盟であった。10世紀から15世紀頃まで、ナンバー2の経済圏はここであった。
 このルートを誰が抑えるかで大変な争いがあった。この黒海側の入口にキエフがあり、そしてバルト海側にはノヴゴロドがあった。30~40km離れたところに、今のサンクトペテルブルクがある。
 この地を押さえるというのがロシアの最も重要なことで、キエフ-ノヴゴロドを抑える者がロシアを統一できる。当然ながらこの地帯は気候が悪いので、商業と言うよりもヴァイキングと同じ略奪だった。
 このルートで何を交易していたか。一番重要なのは琥珀であり、琥珀というのは松脂の化石で、バルト海沿岸で生まれた琥珀を、黒海を通じてアラブ世界に売って貨幣を得るということであった。
 私も2016年にバルト三国に行った際に、リトアニアのヴィリニウスで「琥珀ミュジアム」を訪れたが、ヴィリニウスは琥珀の産地であり、日本で琥珀が取れる岩手県久慈市と姉妹都市になっていた。
 琥珀の他には蜂蜜とか、蝋燭にする蜜蝋であった。こうしてできたのがロシアという国であった。
 ロシアがキリスト教国であるということは余り知られていないが、ロシア人は、本当のキリスト教徒は自分たちだと思っている。どこからキリスト教を入れたのか。当然、ギリシャからであった。
 ヨーロッパを大きく分けると、ギリシャ文化圏とローマ文化圏で、文字も違いギリシャ正教とカトリックとなっている。ロシア正教と言っているが、元々はギリシャ正教からきている。
 ここで先生は資料として『過ぎし歳月の物語』という、986年頃の『原初年代記』を見せてくれた。
 この頃のロシアを語るには絶対必要な本で、翻訳もされている。
 日本における『古事記』や『日本書紀』に当たる本で、12世紀にネストルという修道僧が書いたと言われている。
 12世紀中葉、修道院で書かれたもので、それが100以上の写本がある。『年代記』学というのは大変な学問で、写本には〇〇系列というように系列があるが、これを作った19世紀初頭、国家行事として始まった。
 この項目の中に、『過ぎし歳月の物語』という部分で、ロシアはどの宗教を受け入れたのかということが触れられている。
 レジュメでは、A4で1頁分引用されているが、長いので写すのは避けるが、ちょうど今読んでいる三浦清美著『ロシアの源流』講談社選書メチエ、にロシア国家の建設の部分があるので転載しよう。

 ≪ロシア最古の年代記『過ぎし歳月の物語』 862年の項は、ノヴゴロドを舞台とした史上初の「ロシア国家」建設について次のように記している。
 「彼らの間には正義がなく、氏族は氏族に向かって立ち、彼らの間に内紛が起こって、互いに戦いを始めた。
 彼らは互いに『私たちを統治し、法によって裁くような公を、自分たちのために探し求めよう』と言い合った。
 彼らは海の向こう、ヴァイキングのもとに行った。彼らは『私たちの国の全体は大きく豊かですが、その中には秩序がありません。公となって私たちを統治するために来てください』といった」
 年代記の伝えるところによると、リューリクの末裔はやがて南のキエフを占領したのち国家の中心をキエフに移し、北はヴァイキング、南はハザ―ル王国に朝貢していた東スラブ系諸部族をまとめ上げて10世紀をかけて国家統一を進めた。
 やがて、988年、ウラジーミル聖公がコンスタンティンノーブルからキリスト教正教を受容し、キリスト教を国家の精神的支柱として統合を完成した後、その安定のうえにその子ヤロスラフ賢公がバルト海と黒海、カスピ海を結ぶ交易路、「ヴァイキングからギリシャへの道」上の繁栄を達成した。≫

 3、ルーシの洗礼
 レジュメに「ルーシの洗礼=ロシアのキリスト教化」として年代が記されている。
862年 リューリクがノヴゴロドを占領。
882年 ノヴゴロドのオレーグが南下してキエフを奪取し、南北を統一。
957年 オリガ后妃コンスタンティンノーブルを訪問。キリスト教の洗礼を受ける。
988年 ウラジーミル大公、ビザンツ皇女アンナを娶り、キリスト教(ギリシャ正教)を国教に。
1054年 東西教会の大分裂
1326年 府主教座モスクワに移る。
1589年 モスクワ府主教座が総主教座に昇格。
 ロシアのキリスト教の特徴が、二重信仰と大地・女性崇拝にあるとしばしば指摘される。これは正しくもあり、また誤ってもいる。二重信仰と大地・女性崇拝がロシアにあったが、現在でもあることが事実である。しかしこれはロシアだけでなく、西欧にも共通した特徴である。西欧中世の「マリア崇拝」がある。

 4、タタールのくびきと「大ロシア人」「小ロシア人」の形成
 実は、今のロシアの「ウクライナ問題」と密接に絡んでいる。
 モンゴルは1237年から1240年までロシアに大侵入する。日本にも来たが、さすがに船で来てくれたので嵐で沈没したけれど、ロシアとはそんなものではない。
 モンゴルが得意なのは騎馬、ユーラシア大陸は南北三つに分かれる。北は森林タイガ地帯。南は砂漠、その真ん中は細長いステップ地帯で、このステップ地帯こそがモンゴルが通る高速道路。
 ここを行き来しながらモンゴルは世界を制覇していった。モンゴルは重たい甲冑など着けずに駆回る。ヨーロッパ人が重い鎧をつけ鎖で戦おうと相手にしてくれない。
 ステップ地帯をウンカやイナゴの如くやってきて、彼らは出会う町という町を焼き尽し滅び尽す、全員殺すというのが基本だった。
 運が悪いことに、キエフというのはもっとも肥沃なステップであった。
 蒙古は1240年秋に再度ロシアに侵攻し、キエフは跡形もなく灰燼に帰す。いろいろなデータがあるが、モンゴルが来襲したのは大体13世紀、ヨーロッパではやっとゴシック建築が始まって石造りの建物ができた頃であった。
 ロシアは遅れていて石造りの建築技術はない。職人も皆殺しされているので、工芸技術もない。しかしロシアから逃げた人もいるが、どこに逃げたかというと、当然ながら西のポーランドの方に逃げる。ヨーロッパは森林と山岳地帯で馬が入れない。北も森林地帯で馬が入れないのでそこに逃げこんだ。
 2世紀半の間、キエフはモンゴルの支配下にあった。それだけ時間が経つとモンゴルも次第に弱ってくる。モンゴルからキエフを取り戻さなければいけないと、どこが中心になるかというと、この森の中にあったモスクワを拠点にしたモスクワ公国が、全ロシアを糾合してモンゴルと戦うことになる。
 激しい戦いで、勝ったり負けたり大変であったが、2世紀半後にはロシアはモンゴルを追いだした。
 そうするともともとキエフというのは母なるロシアの一番重要な都市、そこにモスクワが入ってくる。
 従って、モスクワが全ロシアを統治することになり、逃げて出て行った人もここに戻ってくる。ところが、240年も別々に暮らしていると、風俗、訛りも変わってきている。
 モスクワの人たちは、自分たちがモンゴルを倒してキエフを解放したということから「大ロシア人」といい、後から来た逃げ戻った人たちを「小ロシア人」といって軽蔑していた。
 それから言葉も違う。今話しているロシア語はアクセントがはっきりしているが、ウクライナ語はアクセントがはっきりしておらず大人しい感じがする。
 13世紀には同じ民族であったのに、そこを追われて250年離れていた人たちは違う民族になっている。これがロシアとウクライナの違い。しかし「小ロシア人」も自分たちが別の民族だとは思っていない。
 例えば、『死せる魂』などを書いたゴーゴリという作家はウクライナ人だが、19世紀になってもウクライナ人とは思っていない。
 まだウクライナ人だというナショナリズムは成立していない。ウクライナとロシアは別だというようになったのは19世紀の後半からであった。日本の幕末位から、ウクライナの歴史学が出てくる。
 こういう経緯はあったけれど「俺たちは違う」という国の違いが出てきたのは、1850年から60年にかけてであった。
 その頃のことを書いた『二つのロシア』という日本人の書いた本があって、そこには「大ロシアは野蛮で力で世界を征服していくが、小ロシアは調和がとれて、人々を最上のものにしている」とウクライナから見たらとてもいいように書いている。彼らにとっては重要な歴史観になっている。

 セヴァストーポリ(首都のキエフとともに、ウクライナの特別市であったが、2014年3月17日にクリミア自治共和国とともに主権宣言した上で、翌3月18日にロシア連邦と条約を締結し、ロシア連邦の構成主体となったとしている。一方でクリミアの独立とロシアへの編入を認めないウクライナおよび国際連合との間で論争が続いている状態)をウクライナからロシアが取ったというのはその通り。
 しかし、ロシアからウクライナに移ったのは何時の頃かというと、フルシチョフの時代、つまりソビエト社会主義の時代。その時代には各共和国には自治はなかった。
 セヴァストーポリがウクライナに近いので平成の大合併とあまり変わらない。そのつもりでいたらロシアとウクライナに分かれてしまった。そうするとセヴァストーポリはロシアではなくなった。それで怒ったのはロシアであった。
 セヴァストーポリは小さな半島であるが、100年に亘るトルコとの戦いの最前線。それと1856年からのクリミア戦争(19世紀最大の戦争、因みにペリーが浦賀に来たのは1855年であるが、どうしてきたのか。
 ヨーロッパがクリミア戦争で忙しかったから。イギリスやロシアがやって来ないうちに、日本での利権を独り占めしようとアメリカがやって来た)に勝ち抜いたのがロシアであった。
 クリミア戦争でナイチンゲールが看護活動をしたというのが有名であるが、トルストイの短編小説に『セヴァストーポリ』があるが大変面白い。
 たまたまセヴァストーポリに来た軍医が、愛国的熱狂に打たれて帰って行くという小説で、これを読んだ、時の皇帝ニコライ2世は「この人間をすぐにモスクワによこせ。こいつを戦死させるな」と言って、トルストイの小説に感動している。
 つまり命がけの戦いがこのセヴァストーポリでロシアは行っている。プーチンの肩をもつわけではないが、セヴァストーポリはロシアにとって特別な、絶対譲れない決定的な場所でもあった。
 武力でもぎ取ったというのはその通り、国境線を引き直したソビエト時代の国境線とは意味が違う。
 ロシアは理不尽なことをしたけれど、ロシアの気持ちも分かりますよと、この一言があれば交渉でもう少し何とかなったのではないかと思う。
 難しかったのはウクライナのとんでもないナショナリズムで、この問題はそのシンボルであった。
 この時アメリカの第六艦隊のイージス艦などが黒海に侵入した。
 その時ロシアはどうしたか、ロシアの話なので話し半分に聞いて戴きたいが、イギリスの軍事研究所もそう言っているが、ロシアは強烈な妨害電波を出した。そしてイージス艦を麻痺させた。
 そんなことをすればロシアの軍艦も制御不能になるだろうと私は言ったが、ロシアはいいんです、手作業でやるから。
 結果としてロシアは意気軒昂、アメリカの第六艦隊に勝ったと。これは本当かどうかわからない。
 これがロシアとウクライナの事情であり、第二のトピックス。
 タタール支配の結果、ロシアの後進性の原因になったことと、ロシアの野蛮さの原因にもなったこと。
 ロシア人を一皮むけばタタールが出てくる、とよく言われている。ロシア人はそういわれるとすごく怒るが、必ずしも当たっていないわけでもない。
 何が原因かというと、ロシア軍の残酷な罰として、兵隊を一列に並べて鞭を持たせその間を、囚人に通らせる。多くは死んでしまう。これなどはモンゴル起源。
 またロシア人は女性を殴るという。今でこそそれはダメだということになっているが、19世紀の小説を読むと、女性を平気で殴っている。それから女性を部屋の奥に閉じ込めておく。ドストエフスキーの小説に、特に古い商人の町でそういういう場面が幾つかある。その風習もモンゴルから出ているという。
 240年も一緒にいると、そういうことが当たり前になってくるというのかもしれない。

5、モスクワ「第三のローマ」論。
 1)東西教会の分裂(1054年・大シスマ)
 ロシアはキリスト教の国である。ところがローマから来たカトリックとは違う。ギリシャから来た。
 1054年に、東西教会が正式に離婚するが、これを大分裂・シスマと言っている。
 この前から風習が違っていて、「フィリオクエ」問題と言われる。フィリオクエとはラテン語で、聖霊は父からなのか、それとも「父と子から」発したのかということ。
 「父と子と聖霊の名において」を、三位一体と言う。父の子は天にいる、子はイエス・キリスト、聖霊は教会にいる。
 何故三つかというと、人間の感覚で簡単なのだけれど、人間に正義は一番重要で、父なる神は裁く。裁判官が父なる神様で悪を懲らしめる。
 しかし裁くだけでは人間は生きていけない。悪いことをやったけれど、ごめんね。お前ダメだよと許す神が子である。愛なのだ。
 もう一つ、聖霊とは何か。いつも横にいてくるのが聖霊で、これが三位一体。
 その時にイエス・キリストはどこから来たのか。ヨーロッパは父も子も対等で、聖霊は父と子両方から来たというのがフィリオクエであった。父からしか来ないというのがロシア正教であった。
 大変な論争になって何人もの人が火炙りになっているので、どこが違うということは言わない。
 十字の切り方も、ロシア正教では三本指で右肩から左肩へ切るが、カトリックは二本指で左肩から右肩へ切る。また聖餐のパンも、ロシア正教は酵母入りのパンであるのに対して、カトリックは酵母なしのパンなどの違いがある。
 その他に、葬式の時に家の周りを一周するが、右回りなのか左回りなのか、そのあたりの話で大論争が起こっている。われわれから見ると、そこまでやるのという話だ。
 私は決して馬鹿にしているわけではなくて、ヨーロッパ人のあの拘りがなかったら、近代のヨーロッパやロシアの発展はなかったと思う。
 飛行機を作るなど、われわれ日本人は空を見上げてきれいだなと、雲を眺めてボーとしているが、飛んでみようなどとおかしなことを考えるのはヨーロッパ人である。
 ああいう機械を作って、あのエキセントリックな細かいところに拘って成し遂げるのは、スコラ哲学というか、理性的認識と宗教的真理を補完的調和にもたらすことにあるようだ。
 実は15世紀になるとこの地域に大きな動乱が起こる。13世紀にモンゴルに支配された。15世紀にそれを押し戻して取り返した。
 次の大きな動乱のことで、オスマントルコは東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを占領しイスタンブールと改名してしまう。そこで東ローマ帝国の皇帝ヨハンネス8世パエオログはヨーロッパの軍隊を差し向けてくれと、ローマ教会に助けを求めた。
 その時にローマ教会は何をやったかというと、お前のところの異端を直すならいい、と言うので東ローマ帝国は必死になっていろいろ妥協して、フェルララの宗教会議(1438-39)とフィレンツェの宗教会議(1439-42)で東西教会の合同を決議し、ギリシャ正教会はローマ教皇の至上権を認めた。
 簡単にいうと吸収合併されることをその会議で結んでしまう。
 ところがそれに反対する、株主総会のようなもので、やっと二つの会議を経てローマ教皇が援軍を差し向けると言った時に、東で一番強かった国はどこかというとモスクワであった。なんで俺たちがローマの傘下に入らなければならないのかと怒って独立してしまう。いい加減にしろ、と今のルノーと日産と同じ。
 とうとう援軍が来る前に、1453年にコンスタンティノープルが陥落してしまう。
 ロシア人はどう思うかというと、ざまあみろ、あんな神を裏切るようなローマと契約するから滅びたんだ。原因と結果の入れ違いのようなもの。

3、 イワン3世とソフィアの結婚
 イワン3世は、最後の東ローマ皇帝パレオログの姪ゾエと1472年再婚するが、その経過はこうだ。
 ゾエは東ローマの人間としてローマ教皇との交渉に行っていた。ところが東ローマは陥落してしまう。
 そうした中で、ローマ教皇は何をやりたかったかというと、モスクワを取り込みたかった。そこでイワン3世に、東ローマ帝国の娘と結婚しないかと取り持つ。そして、二人はモスクワで結婚する。
 ゾエは正式にロシア正教に改宗してソフィアと名乗る。しかし結局ローマとの合併は成立しなかった。
 ところがロシアで大きなことが起こる、つまり正当な嫡流だという称号をもらったということ。
 その時までイワン3世の称号は公であった。それが結婚して初めてツァーリとなる。ツァーリとは何かというとカエサル、ローマ皇帝アウグスト・カエサルの直系に繋がる筋にモスクワツァーリがなったとこと。
 「全ロシアの大公」「全ロシアの君主」の称号を初めて名乗り、「双頭の鷲」を紋章とする。完全に東ローマ帝国からもローマ教会からも独立し、俺たちがローマの国、しかも第三のローマだと。
 ドストエフスキーが『作家の日記』に次のように書いている。
 ≪個人と国家の生活のすべては神意により決定される。ツァーリが立てられるものも神意による。地上正義の源もそのうちにある。古きローマがアポリナリオスの異端に落ち、種いれるパンを使用したことの故にほろんだのもそれによるのである。
 続いて選ばれたコンスタンティノープルの都も、第八回宗教会議(フェルララ=フィレンツェの宗教会議)での信仰の裏切りの故にトルコによって蹂躙された。
 無傷で残っているのは神に加護された第三のローマたるモスクワの栄えある普遍正教会、ウスペンスキー教会のみである。この全ルーシの聖所は、その深い信仰においては太陽よりも明るく輝いている。第三のローマは人類史において最後の帝国で、第四のローマはないであろう。子の最後の世界帝国たるロシアの後にはキリストの永遠の国が来るであろう。(プスコフの修道僧フィロフェイの書簡)≫

 現在のロシアはGDPを見てもたいしたことはないが、彼らはなぜあれほど「世界に冠たるロシア」と自信をもって言うのか。
 共産主義が否定してきた宗教・ロシア正教の復活に、政治・宗教・教育が三位一体的にかつての姿を取り戻しつつある。軍事行動を起こす時に、総主教の祈りの姿が映し出されている。

 第一回の講義の最後に、「ユーラシア主義」について話された。
 ソビエト社会主義が生まれた時に、多くの社会主義・共産主義以外の人たちは、ヨーロッパ、日本、あるいはアメリカに移り住んだ。その彼らの間に一時期、それほど大きなものにはならなかったが、ユーラシア主義という運動があった。
 世界共産主義革命運動にわれわれは敗れた。それに対抗するためには、ロシア人のわれわれはもっと世界的なミッションをもたなければならない。
 ボルシェヴィキを批判するだけでなく、われわれ自身ロシアの神聖たる使命があるのではないか。
 ユーラシア大陸のアジア部分とヨーロッパ部分を占める唯一の国がロシアだ。ということはユーラシアの全く異なったヨーロッパ文化とアジア文化の二つの文化を一つに纏めて、より高い、全く新しいユーラシア文化を作ることができるのではないか、というユーラシア主義が生まれた。
 雑誌もたくさんできるが、結局のところ美しい物語ではあるが、賛同する人もついて来なかった。
 今でもユーラシア主義の人がいると思うが、それを研究している人も日本にいるが、没落していった。
 一つの国を維持するだけではなくて拡大し繁栄するためには、世界史的な使命が必要になってくるということでもある。
 日本もその罠に嵌って、八紘一宇というアジアを纏めるとかいう大きな物語を作ってしまった。既に大きくなった国は、より大きな物語を作りたがる。
 その一つの根源が、モスクワ第三のローマ論でもあった。              (了)

カテゴリ:アート・文化

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