源氏の支配を快く思っていなかった後鳥羽上皇は頼朝の血筋が絶えたことで、鎌倉幕府が崩壊すると思い、承久3年(1221年)執権北条泰時追討の院宣を発した。これに呼応して政権に不満を持つ武士や僧兵などが挙兵した。
これに対して北条政子は御家人を集め、頼朝の功績を熱く説いた。これが史上に名高い演説で、政子の名を「尼将軍」として後世に残すエピソードになった。政子の言葉に燃えた御家人たちは京都へ攻めあがった。鎌倉を出立した時は僅か十数騎だったのが最終的には十九万の軍勢になったという。
戦いは鎌倉方の圧勝で後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇はそれぞれ隠岐、佐渡、土佐
連載:「日本国紀」⓰