「海外」の日記一覧

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海外音楽談義 No.148 Neil Sedaka

 1939年3月13日、ニューヨーク生まれの歌手、ピアニスト、作曲家、プロデューサー。主に1950年代後半から1960年代前半に活躍。1955年頃にはThe Tokensの前身Linc-Tonesというボーカル・グループに所属していたが、独立してソロ歌手に。最初のヒット曲「The diary~恋の日記」は友人のConnie Francisのつけていた日記を読ませてもらえなかったことから着想して作…

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シンガポール恋し

「お探し物は図書室で」、と言う本を読みました。 内容は、出版社で編集員をしている女性のAの話です。 Aは大きな功績をたてます。 上層部から褒められ、自信が湧いた時に妊娠を知り、産休、続いて育休を取ります。期間が経過して会社に復帰したら席がなくなっていたというような話です。 私はハッとしました。 私は幸い義母。義父がいて助けて貰えていたから育休は最低日数で済みましたが、今の日本は…

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海外音楽談義 No.147 Massimo Ranieri

  1951年5月3日ナポリ生まれの歌手、俳優。1964年にジャンニ・ロックという名前でレコード・デビュー。弱冠13歳の時だった。1966年にマッシモ・ラニエリとしてメジャー・デビュー。「Pieta per chi ti ama」(1967)、「Preghiera per lei」(1968)、「Rose rosse:紅バラを君に」(1968)などのヒット曲を出し、サンレモ音楽祭の常連となる。代…

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海外音楽談義 No.146 Terry Stafford

 1941年11月22日 – 1996年3月17日、アメリカのシンガー・ソング・ライター。Elvis Presleyの「Suspicion」のカバーでデビューした。当時はThe Beatles全盛期で、全米トップ5がすべてBeatlesの曲だったが、その牙城の一角を崩したのがこの曲。全米第3位のミリオン・セラーとなった。続いて出した「I’ll touch a star」もそこそこヒットした。声質…

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海外音楽談義 No.145 Eric Charden

 1942年10月15日-2012年4月29日。フランスのシンガー・ソング・ライター。フランス領インドシナ(ベトナム)のハイフォンにて、港湾技術者のフランス人父親とチベット人母親の間に生まれる。その後、パリに移り住み、音楽を学ぶ。1963年から作曲を開始。Enghien音楽祭で「Le printaniste」を歌い、第一位を獲得。その後、自身で歌う以外に多くの歌手に楽曲を提供。ミュージカル制作に…

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海外就労

上の孫娘は英会話が堪能なので、大学を卒業する今年は日本で就職せず、秋にはカナダに留学します。本人曰く、1年は留学ピザで行き、その後は就労ビザを習得して現地で就職したいと言っています。日本の現状では若者が将来に希望が持てない様ですが、IT関連の会社を経営して居る息子も割り切っている様です。

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海外音楽談義 No.144 Paul Anka

 1941年7月30日、カナダ、オタワ生まれのシンガー・ソング・ライター。父母はシリア、レバノン出身。少年時代には教会の聖歌隊で歌っていた。「I confess」(1956)でレコード・デビュー。弱冠14歳だった。「Diana」(1957)は全米、全英チャートで一位となる。その後も続々とヒット曲を出し続けた。Beatles出現以降は低迷したが、Claude Francois作曲の「Comme d…

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海外音楽談義 No.143 Iva Zanicchi

 1940年1月18 日生まれのイタリア人歌手。1962年のCastrocaro音楽祭で3位入賞を果たし、デビュー。Sanremo音楽祭では3度の優勝を誇る。ユーロヴィジョン・コンテストにもイタリア代表で出場。パリのオランピア劇場でもコンサートを開催した。ミーナ、ミルヴァ、パッティ・プラヴォ、オルネラ・ヴァノーニとともにイタリア女性歌手のビッグ5と呼ばれた。アルバム、シングル合計300枚以上リリ…

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口癖だった「しかたがない」がまた出始めた。

世の中で気に入らないことがると「なんで!」とか「おいおい!」と言ってみたり、政府声明を真似て「けしからん」「遺憾」「断固非難する」と、犬の遠吠えみたいに叫んでいましたが、何の効果もないし、歳も取り声も続かなくなりました。 今は「仕方ない」「しようがない」が口癖になりました。 この言葉は現役中には口癖みたいに連発していました。この言葉は自分は気に入らないけど、周囲の状況からの一種の「逃…

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南国リゾート②

1月15日 今日は旅友さんが帰国するので私の滞在ホテルで時間待ちがてらビーチサイドで雑談やお昼寝 旅友さんを見送ってから部屋でのんびり クラブタクシーで空港までRp28,000(280円) 1月16日 ウブドへの移動日10時チェックアウトしてGrabで90分かけて移動 前日に最初ホテルのタクシー予約してたのですがRp450000 値引き交渉してRp30000…

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海外音楽談義 No.142 Nat King Cole

 1919.3.17-1965.2.15、アメリカのジャズ・ピアニスト、歌手。父は教会の牧師、母は教会のオルガニスト。1939年にジャズ・トリオを結成し、ピアニストとして高く評価された。1950年代以降はPopsに転向し、Mona Lisa(1950)、Too young(1951)、Smile(1954)など大ヒット曲を出し続けた。アメリカ本国でチャート・インした曲は100曲以上。シングル、ア…

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海外音楽談義 No.141 Jeanette

 1951年10月10日、英国ロンドン生まれのスペイン人歌手。本名、Janette Anne Dimech。幼少期を英国で過ごす。1967年にはフォーク・グループ、1968年からはPic-Nicというバンドでリード・シンガーをやっていた。1971年にソロ歌手となり、「Soy rebelde」をリリース。1976年「Porque te vas」が映画に使用され、大ヒットする。サッカー選手と結婚し、…

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上海時代

僕は岡山市で生まれると直ぐに上海に渡った。 姉と兄は父の赴任地の大阪で生まれている。 父は務めていた銀行が倒産し、岡山に戻っていて僕を産んだらしい。日本は大不況時代だったと聞く。 幸いというか家の近くに天満屋がありこのデパートが火災になり類焼したわが家は燃えて、その保証金が出た。 この事件がなかったら僕の運命は別のものになっていた筈。 父は一旗揚げようと単身で上海に渡り定住…

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海外音楽談義 No.140 Bobby Vee

 1943年4月30日-2016年10月24日、アメリカのポップ歌手。アメリカ人の父親とフィンランド人の母親を持つ。弱冠16歳で「Suzie Baby」でデビューし、認められる。その後、順調にヒット曲を出し続け、1960年代に38曲もビルボードHot100に送り込んだ。  オールディーズ・カラオケ・コミュでよく歌われるのは「Rubber ball」(1960)、「One last kiss…

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海外音楽談義 No.139 Caterina Valente

 1931年1月14日、パリ生まれの世界でもまれな多言語歌手。父はアコーディオン弾き、母はコメディアン。1952年にドイツ人の大道芸人と結婚し、ドイツ国籍を取得。そのせいかドイツ語の歌も多い。1972年には英国のピアニストと結婚。英語の歌も多い。もちろん、自国フランス語も操る。たしか12か国語で歌っているとか。日本語の歌もある。アルバム、シングル合計800枚リリース。  「Tout l’a…

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海外音楽談義 No.138 Salvatore Adamo

 1943年11月1日イタリアはシチリア生まれのシンガー・ソングライター。1947年にベルギーの鉱山に働きに行く父とともに家族でベルギーに移住。少年時代にはバンド活動をしていたらしい。レコード・デビューは17歳の時。その後、ヒット曲を出し続け、ベルギーで最多のレコード売り上げを記録している。アルバム、シングル合計800枚リリース。外貨を稼いだのでベルギー国王から勲章を授与された。下記の曲以外には…

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海外音楽談義 No.137 Dean Martin

 1917年6月7日-1995年12月25日、イタリア系アメリカ人の歌手、俳優、コメディアン。1940年代初頭にはクラブ回りバンドの専属歌手をしていた。クラブで知り合ったJerry Lewisと即興でコンビを組むと、人気者に。これが映画プロデューサーHal B. Wallisの目にとまり、映画「底抜けシリーズ」(1949-1956)に出演し、世界的なスターになる。このシリーズはテレビで何回か見た…

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海外音楽談義 No.136 Francoise Hardy

 1944年1月17日パリ生まれのシンガー・ソング・ライター。18歳の時の「Tous les garcon et les filles(男の子、女の子)」(1962)がデビュー作。「L’amitie」(1965)、「Ma jeunesse fout le camp(もう森へなんか行かない)」、Margaret Whitingの「It hurts to say Goodbye」をフランス語でカバー…

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海外音楽談義 No.135 Little Peggy March

 1948年3月8日生まれのアメリカのポップ歌手。5歳からテレビのショーに出演していたらしい。13歳の時にプロデューサーのHugo & Luigiに見いだされ、「Little me」(1962)でデビュー。15歳の時にPetula Clarkの「Chariot」をカバーした「I will follow him」(1963)が全米1位を獲得し、最年少1位の記録を打ち立てた。  その後、いくつ…

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海外音楽談義 No.134 Udo Jurgens

 1934年9月30日-2014年12月21日、オーストリアのシンガー・ソング・ライター。1961年にShirley Basseyに書いた「Reach for the stars」で世に知られる。初めてオーストリア代表としてユーロビジョンで歌った自作「Warum nur warum」(1964)では6位に終わるも、この曲を気に入ったMatt Monroがカバーしてヒットさせた。三度目のユーロビジ…