さんが書いた連載新規に連載を追加するの日記一覧

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2020オリンピツクはコロナウイルスが終焉するまで延期か中止にしよう

来月から2020年オリンピック強か訓練が始まる。 今日現在までまだこの病の予防薬も完成されたとニュースで聞かない。今のテレビニュースで東京のタクシー運転手が感染されたと言うニユ―ㇲが流れた。また横浜に滞在したクルーズ船が解決方法も無く滞在している。 2020年オリンピックは最初からあやつきだ。

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昭和の時代を語る・倒産後。令和2年2月3日

説明の順序が前後しましたがご容赦下さい。 倒産直後、銀行からわが家に差し押さえに来た。丁度私が不在で妻と母親がいたときでした。 家の中まで見て回り何もないので引き上げたと聞きました。 そうだ、わたしたちは裸一貫で始めたのだった。 引揚当時は食料なく毎日、毎日ひもじい時を過ごしていたのだ。 これも自分に課せられた運命なんだと諦めの境地に立たされていた。 友人からも心配いてくれて命だけは絶つことし…

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昭和の時代を語る・倒産後。令和2年2月1日

説明の順序が前後しましたがご容赦下さい。 倒産直後、銀行からわが家に差し押さえに来た。丁度私が不在で妻と母親がいたときでした。 家の中まで見て回り何もないので引き上げたと聞きました。 そうだ、わたしたちは裸一貫で始めたのだった。 引揚当時は食料なく毎日、毎日ひもじい時を過ごしていたのだ。 これも自分に課せられた運命なんだと諦めの境地に立たされていた。 友人からも心配いてくれて命だけは絶つこと…

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昭和の時代を語る・倒産後。令和2年2月1日

今で新事業に協力してくれた会社が銀行のリースに入っていた機械を引き取って呉れて、自分の身まで引き取ってくれた。未だ製品は問題だらけであった。ただ商品を納める地元の問屋に義理の弟が務めていてそこの問屋も大いに力になってくれて沖縄を除いて日本国中の主要都市に納める道が作られた。ほとんどが街の中小企業のスーパーであった。新商品の為にサンプルが必要であった。 デイーゼルの商用車に満載のサンプルを積み込ん…

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昭和の時代を語る・倒産後。令和2年1月16日

一般債権者は静かに見守って呉れたが、高利貸しは家に居座り未回収の売掛金を狙うが労同組合がそれを阻止して組合員の給与の一部にする。 組合員はその後もが労組は操業続けた。 満州からのお付き合いしいていたwさんが心配して東京でも有名な弁護士を紹介してくれた。費用もその方が用意してくれた。 弁護士費用は前に経営していたころの倒産会社が持ち直してその分を弁護士費用に充てて貰った。 銀行や信用金庫や高利貸し…

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昭和の時代を語る・令和2年1月5日

明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いいたしめす、 この挨拶が出来てうれしい。 本来ならばこの挨拶もままならかったが、幸運にも体調が多少復元しました。 ここに皆様の幸運とご健勝のお喜びを申し上げます。 前頁より「同業者組合を作り値上にする事だと云われて、同意して組合を結成した。 何回か会合開き全者が同意した。 信用していた会員が出た。それは一番の得意先に入り込まれた事だった…

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昭和の時代を語る(33)「貧乏生活 その3」12・27

特需景気が来たと喜ぶ人は多くいた。人の不幸を見て喜ぶ気になれない。 それは1950年に起きた朝鮮動乱でいまだに解決が出来ない状況です。 朝鮮は中国とソ連とアメリカの対立により、戦争状態に置かれた。日本はまだアメリカが占領されていたために、朝鮮の基地としてつかつかわれ武器の修理や戦傷者の介護。戦死者の手入れが行われた。 あその仕事は米軍の戦死がホルマリンに付けられて日本に移送されたのを、包帯で巻…

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昭和の時代を語る(32)「貧乏生活 その2」12.24

母が新居の案内状を出したところ岡山県から一人と東京から一家4人家族がやって来た。 この2軒は親戚でもなく、ただハルピンで戦後家に避難してきたしてきた人達だ。岡山から来た人を近くの中学校の臨時教諭に世話をして、東京からの一家の主人を製紙工場に勤めるか事が出来て工場の近くの小さなお宮さんに寝泊まりが出来るようにお願いした。 それまでは狭い家に家の者も入れて多くの人が住んでいた。 父はその後製紙工場…

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昭和の時代の時代を語る(31)「貧乏生活」2019・12・19(木)

このころ農家以外の人を除いてみんな貧乏生活をしていた。 農家は食べることでは不自由を感じなかった。 私達は皆が貧乏で貧乏が当たり前と.思っていた。 横浜の叔母が衣料を仕入れて、母と.二人で荷物を大きな風呂敷に包み背中に担いで、山路の農家に売りに行く。 家では.帰りを待って良くてイモの主食、サツマイモの時はグウであった。 時には親類の農家からお米を借りて来た。 その内にコメの代わりにザラメの…

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昭和の時代の時代を語る(30)「父のふるさと」

日記を書き続けるのは、一番の目的は戦争のない社会造りは私が経験した事などで、 一、戦前戦後を通して人種差別を御互いにしなかった。 一、困ったときには助け合うこと、弱者には助けること。 一、この意識しなく常に友達として付き合う。 一、戦争に使う費用は助け合いに使いたい。 一、戦争で破壊した国が破壊した所を複旧すること。 一、その他もあえうとおもい。 このような事を書くと平和ぼけだと言ってもよいが…

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昭和の時代の時代を語る(29)「引揚船に乗る」

甲板に大きな日の丸の国旗を見た時、「あああ…漸く日本についた」と安心感が強く感じた。 木製のはしごだんで甲板に上る、各家庭ごとに貨物置場に入った。 今度は逆のはしごで下りた。そこには三方に3段の蚕部屋があった。 各自お好みの場所を取る。ここでは中段の部屋をとった。 部屋は十部に余裕があった。その日の夕刻船は満州国葫蘆島を離れた。 みんな甲板で別れを惜しんだ。中にはラバウル小唄の替え歌を歌ってい…

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昭和の時代の時代を語る(28)「引揚途中」

哈爾浜足^新京(現 長春市)を通れば最短距離であったがその途中は通行止めの個所が多くまた、政府軍と毛沢東軍の争いが有ってわざわざ遠い吉林回りをした。 *遠回りをしたと愚痴は聞かれず、ただ日本に帰れる希望があったためです。 無がいしゃに(屋根のない貨車)に何度乗ったか分からない。走っては止まりの連続であった。止まると連絡員が機関手に交渉に行き何がしかのお金をやっていたと聞いた。 吉林までが難航…

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昭和時代の思い出(22)「避難民」

わが家は避難して来た大人が大勢いた。 その顔ぶれを思い出すまま紹介しよう。 まず、⒲さんの奥さんと赤ん坊です。父親は生まれて昭和に招集で19年に母親と僅か2か月の女の子を残して、兵隊に取られたのです。 wさんの連れ合いは父の遠戚であり、父母が仲人をしたひとであった。wさんは私達子供を自分の弟のように可愛がって呉れた人であった。 ⒲さんの奥さんの妹夫婦が避難してきた。 妹の旦那はロシア語の大学…

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昭和時代の思い出(21)「父帰る」

*勝手ですがコミニテイ「昭和を語る会」からこの欄に戻します。21号から24号までは重複します。 宜しくお願い致します。 昼夜で行くところを2ヶ月も掛けてようやく夕刻に家に辿りついた。 父からの話しです。 「召集に行く前に満鉄ハルピン駅に父が務めていた下請け会社を委託していく。 現地に行く前に列車の中で敗戦の話しを聞くが、帰った人も居たが、父はそのまま現地に向かった。 現地について部隊長から敗…

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昭和時代の思い出②

父の9人兄姉で末子である。9人中男は5人その内2人が婿入りして、いました。 財産家にいった叔父叔母は何とか暮らしが出来ていた様ですが,その他の実家 や叔父叔母の暮らしは相当苦しかったようです。 *ウィキペディア(Wikipedia)を参照 (*金融恐慌 第一次世界大戦では大戦景気による稀に見る好況を迎え、日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし、大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸…

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昭和時代の思い出①

令和の時代になって昭和の時代のことが消えかかった感じがして来た。 当時を知る頼りにしていた諸先輩たちも数少なくなって来た。 諸先輩たちのご苦労と、私が僅かな体験を思い出しながら記していきたい。 「昭和を語り継ぐ会」コミニテイを今年の5月に作った。 前置きをこの辺で済まして私の祖父母から父母の体験したこと、すでに亡き姉兄の体験記を記して私の体験記を記したい。 祖父母は私たち一家が満州から引き揚…