siogama塩竈の芭蕉一宿の地「治兵衛」の宿が判明しました。

曾良の日記によると、芭蕉一行が泊まった塩竈の宿屋の主は、「治兵」とあります。
法蓮寺下は門前町と称されていましたが、元禄9年以降に東側海岸線が埋立てられ、宮町が出来上がり、明治以降さらに海岸線は東側に移動します。
元禄2年当時の門前町の資料は『塩竈町方留書』に記されています。(『塩竈市史?資料編』)
この留書には、「治兵衛」は「平 次兵衛」と記されて、門前町の組頭で一軒屋敷を構えた町人で、脇往還の船宿の主であったことが読み取れました。
安永の『塩竈村風土記御用書出』には、門前町16軒と記されていますが、元禄2年当時は13軒が有力です。除屋敷10軒が門前町