著名な史跡ではないけれど ㉜岩倉具視襲撃される

明治7年1月のことである。霞ヶ関の自宅まで馬車で帰ろうとした右大臣岩倉具視は現在の紀尾井町付近で数名の刺客に襲撃された。傷は軽傷ですんだ。

必死の捜査で犯人は3日後に捕らえられた。土佐藩出身の9名の陸軍関係者だった。彼らは熱烈な征韓論の支持者でヨーロッパから帰国した岩倉が、征韓論を斥けたことを恨んだ犯行だった。

本書232p~233pには概要下記の記載がある。
【斬殺された彼らの遺骸は宝泉寺に埋葬された。彼らの賊名は明治28年、日清戦争後に除かれた。墓地の中央に「九士之墓」と題した大理石の墓碑が作られたのは宝泉寺が中野区に移った明治43年である。】