長い思い出の下手な文章を読んで頂き有難うございます。、また、拍手やコメントを頂戴して感謝しています。 私たち戦争体験者ではありますが,親のもとに体験をしたことを記述しました。 子供心に戦争に敗れた惨めさ、私たちを守ってくれるべき軍隊の上官がいち早く、在満邦人を見捨てて逃げ出したこと、記載しなかったが父の体験から、「最後の最後(敗戦3日前)根こそぎ召集の行き先が北満にいる邦人を守るのではなく、関東…
出航して一晩が立ってもカモメが船についてきた。 何処で休んでいたのだろう。船の帆で休んでいたのだろうか? その内、玄界灘の大波に船は大揺れとなった。 だが自分は船酔も無く、船内を飛び回っていた。 3段式の蚕棚に似た、寝床は転がるのでやむを得ず起きて周りを見ていた。甲板に出ると大波が船首が真下に向かったり真上になったりで大揺れであった。 どのくらいたったか分からないが、船中で二人ほど亡くなって、毛…
ここでも両親の知り合いの人が訪ねてきてくれた。 「日本についたら必ず会おう」と約束をしていた。 満天の星空を見ながらすぐに眠ってしまった。 朝早く起こされて、今日も行軍どこを歩いたか分からない。ただ「老爺嶺(ろうやれい)」と言う場所を通った記憶がある。 夕方近くなって新京(現在の長春)に着いた。 満鉄の官舎に宿泊すると言う。部屋を掃除して母と姉は飯盒で飯炊きを始めたら、すぐに移動と連絡が入った。…
家族そろって引揚の準備にかかった。8月に入って引揚の日取りも決まった。 一週間分の米を靴下に詰め込み、それぞれ配分した。後は副食の缶詰などリツクに収めた。 帰国する前の番、月夜で明るい晩であった。庭が騒々しく声がした。中国人が月ペイを私たちの保存食としてみんなで作ってくれていた。 塩アンのかちかちの月ペイであった。 私たちがもった食料は1週間しか持たなかったが。中国人が作ってくれた月ペイは葫蘆島…
囚人部隊の侵攻で哈爾濱市内は暗黒街と化した。 それは8月24日ごろから始まって三カ月くらい続いた。 その間ソ連軍のゲーペーウー(日本の憲兵の様なもの)が元日本司令部にはいって来たころから、暴漢のような囚人部隊は徐々に姿を消していった。 その頃梅田さんの家に家族で(父は召集で未帰還の為に不在)母と子供4人で風呂を貰いに行っての帰り。街灯だけはうす暗い夜道を家に帰る途中、後ろからソ連軍のGMのような…
敗戦の8月15日は何事も起きなかった。 ただ町の騒音が静まったころ、何とも言えない不気味な爆発音が聞こえてくる、ドラム缶が爆発したような鈍い音が南の忠霊塔の方から聞こえてきた、 姉があの音は兵隊さんが爆弾の上に乗って自決している音かもしれないと勝手に想像をした話をしていた。 (帰国してからしばらくして、森村誠一「悪魔の飽食」を読んでわかったことは731部隊が施設を破壊していた時の音の様だった。)…
昭和20年8月15日の夜中は大雨であった、朝起きた時も黒い雲が低く垂れさがっていた。 ラジオは何回も「今日正午に重大放送」があるから聞くようにと何べんもくり返し放送があった。 学校からは朝、学校近くの公園に集まるようにと連絡が入った。 姉は哈爾濱神社に集合、長兄は自分が行っているハルピン中学に行き、次兄と私は、近所の友達と言われた公園に向かった。 もうほとんどの生徒が集まっていた。クラスの一番後…
敗戦前は家の中が暗かった。まして父が招集で不在、家族が暗い気分になっていた、燈火管制で電灯に黒い幕を張って、窓には黒のカーテンで外に明かりが漏れないようにしていた。 ソ連参戦から厳しく、役所・警察・警防団の人が見回りに来る、 特に怖いのは特別高等警察であった。 高等警察とは、「国家組織の根本を危うくする行為を除去するための警察作用」と定義される。いわゆる政治警察や思想警察のことである。戦前の…