「人生回顧」の日記一覧

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我が人生を振り返って19:世界旅の終了からコロナ発生まで

 2015年の10月2日に帰国の成田空港を出ようとしたときに歩行困難になり、車いすでタクシーまで運んでもらって帰宅した。これを機に1991年から100回行った世界旅は終了し、タクシーでも楽に戻れるところである東京探索に切り替える。池袋のサンシャイン水族館は年間パスポートで良く通った、ここの日本の水槽でオイカワに会うのは楽しかった。  2012年から始めた直売所の出荷とその近くにあったカラオ…

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我が人生を振り返って16:自治会役員から原発事故後まで

 2008年の4月から2年間、自治会の副会長兼ブロック長を引き受けたので世界の旅は見合わせることにした。  息子が帰国して自宅から通勤したので、新しい情報を教えてもらう。一つ目が写真の販売サイトであり、日本のフォトライブラリーに出品した。約3千枚で販売回数は900回を超えたがプロには程遠いものであった。もう一つはユーテューブへの投稿で、こちらは歌と旅の思い出など1300ほどとなった。その一…

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我が人生を振り返って15:農業相続終了から自宅建替え迄

 2002年に10年前から、宅地並み課税で農地からの収益の何倍もの固定資産税に苦しめられていた農地の農業相続期間が満了した。農地があっても負の資産ではどうにもならないので事業用地に転用し、すでに賃貸していた貸倉庫を解体して元4枚分の農地に大型店舗を建設して賃貸することにした。借り入れ期間は20年だったので毎月の返済が終わるまでは手残りも少なかったが、農地で継続するよりは上策であった。  調整区…

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我が人生を振り返って14:会社設立から農業相続終了まで

 1992年、昭和48年の2月に48歳で有限会社を起こした。 今までの住居の貸家に加えて貸店舗と貸倉庫の事業を展開した。貸店舗は始めに15年契約で貸したが、その会社が半分ほどで倒産してしまい退店した。類似業種の店を探して入店したが賃料は大幅にダウンしてしまった。この仕事の怖さを味わったが、赤字にはならなかっただけ幸いでした。  残りの農業相続した土地で市街化区域内は宅地並み課税で、農業収…

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我が人生を振り返って13:退職から会社設立まで

 1989年、昭和60年の6月30日に19年3か月で県の勤めを退職し自営となった。月給はゼロになったので生活の基盤は父の代から始めた借家業だった。結婚してからその管理は妻がしていたのでその点は安心だった。当時は貸し手市場という感じで空きはほとんどなかった。  もう一つの懸案であった農地は県道の南北各1枚の水田を除いて20年の農業相続とした。その為に何としてもそれまでは兼業農家を続ける必要が…

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我が人生を振り返って10:結婚から転勤まで

 1971年、昭和46年の11月25日に神前結婚式をし、70名余りが出席してくれた披露宴も無事に済んだが、新婚旅行はキャンセルという波乱の船出だった。父の入院は3年に及び、その間母は付き添ったので家のやりくりは大変だった。なれない妻と二人で近所や親戚の付き合いに加え、貸家の管理もした。翌年の10月には娘が誕生し、妹2人と5人家族で暮らす。 父は退院して帰宅し療養生活は6年ほど続く。農作業は委託…

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我が人生を振り返って9:就職から結婚まで

 1966年、昭和41年に22歳となり学生から社会人に巣立つこととなる。4月1日に横浜にある神奈川県庁に行き、県立蚕業試験場勤務の辞令を受ける。同じところにもう1名採用されていたので一緒に海老名市の職場に行き場長に挨拶し病理化学科の勤務となる。何と、今まで見たこともないお蚕さんの何の仕事をするのか不安だった。過去にこの職場に採用された方はほとんど東京農工大学の養蚕学科だった。  科長の説明では…

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我が人生を振り返って8:大学生の後半

 1964年、昭和39年の2月に20歳となり、4月からは大学も後半の3年生になった。専門課程なので「栄養化学・食品化学・発酵生産学など」の専門科目が目白押しであり、発酵生産実習ではワイン作りもした。また3年から卒論の研究室に入り実験を始めるが、私は応用微生物の研究室で石油酵母に関する研究を選んだ。  農学部には理科の教員免状を取得するための「教職課程」が併設されていた。教員採用試験も考えていた…

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我が人生を振り返って7:大学生の前半

 1962年、昭和37年の4月に高校2年生の夏までは想像も出来なかった大学生になることが出来た。その頃は同級生の1割も大学に行く人はいなかったので本当にうれしかった。  明治大学は三ヶ所にあり、駿河台の本校・和泉の教養課程・そして生田の農学部に分かれていた。入学した農学部は自分の家から小田急線で新宿に行く途中の川崎市生田にあったので、通学は比較的に楽であった。あとで知ったことだが、ここは戦…

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我が人生を振り返って6:高校生の三年間

 1959年、昭和34年の4月に県立の古田島農林高校の農業科に入学した、この高校は戦前からあり父とその弟も5年生の農林学校卒業生です。私が入学した時には全日制の定時制課程は4年生だけで募集は無く、農業科2・普通科2・農林土木科1クラスでした。農業科は国語・数学・理科などの普通科目は半分で、残りの半分かそれ以上は作物・園芸・畜産などと実習の専門科目でした。2年の時には土木測量もあり、夏には演習林で…

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我が人生を振り返って5:中学生の三年間

 1956年、昭和31年の4月1日は中学校の入学式だったが、前日に他界した祖母の告別式の日だった。それで入学式には一人で行き、直ぐに帰宅して祖母を墓地まで送った。当時はまだ土葬だったので穴を掘って棺を納めた。    この年あたりから暮らしに変化が見られ、洗濯機が使われ、プロパンガスのコンロが出て来た。家族のようだった馬が居なくなり、耕運機で耕したり運搬したりした。  農作業の手伝いは相…

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我が人生を振り返って4:小学校卒業まで 

 1958年、昭和28年の春に4年に進級した。 弟が入学し卒業するまで徒歩で10数分を一緒に通う。 朝学校に行く前に家畜(ニワトリ・豚・馬に羊)の世話をした。長男で将来は専業農家の後継ぎの予定だったので、父もその気でいろいろと教えてくれた。当時は米つくりが中心で、冬から春には麦・菜種・キャベツ・じゃがいもとナスなどに自家野菜と果物だった。魚取りや夏場の水浴びと冬場の道祖神の準備にめんこやこま…

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我が人生を振り返って2:3歳から小学校入学前

 記憶のあるのが3歳になった直後に祖父が他界したことだった。それから小学校入学までは自宅とその周辺の田園風景の中で育った。この辺りではやや規模の大きい自作農家で田畑を約2ヘクタール耕作しており、家族は祖母に両親と3人の姉に弟の7人だったが、6歳の時に妹が自宅で生まれて8人になった。泊まり込みの青年が農作業の手伝いをしていたので9人で暮らしていた。  その頃の農家には馬を始め、豚とかニワトリがい…

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初めての妊娠から出産まで 

娘の学校の宿題で、今から15年くらい前に頼まれて書いたものですが、古いWordバージョンだったので、、別途変換アイテムが必要(無料使用は期間限定)、少し付け加えて、保存のために掲載することにしました。 昭和61年結婚から3年経ち「子供は?」の周囲の声に、プレッシャーを感じていた。 私は仕事等のストレスから相変わらず生理不順で、ホルモンバランスを崩していた。 夫は、通勤時の交通事故で入院5ヶ…