「無我」の日記一覧

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無の境地

私の瞑想は内面との対話。 40年以上続けている。 その結果、実感するのだが、 内面を探しても、 自分や私や自我というものは、 どこにもない。 確かに、色々な声が聞こえる。 多様な意見や考え。 いろいろな体験もしている。 思いや感情も様々。 たとえば、吃音の体験。 これだけは、人に話しても、 分かってもらえる人は少ない。 当事者であっても、それぞれ事情が違…

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23日月曜日と二十四日火曜日は連休でした

22日朝起きてパソコンの前 妻が今日は山にいくんじゃ? 夕べ妻と居酒屋でそんなこと謂ったかもしれない それじゃ、おにぎりだけ作ってください 追い立てられるように家をでた 新東名高速道を焼津、藤枝ICで降りた 岡部町の山中を林道の案内板に随い増したが、 勘違いして難儀しまして 藤枝市の山間部、蔵田集落から 藤枝の高尾山から笠張山~菩提山 久しぶりの山歩き期待と不安 やっぱり怠…

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人生は楽園

釈迦の考えには、同感することが多い。 一つだけ、私と違う点がある。 人の世は苦であるという認識。 私は、人生は楽園で天国だと思う。 我欲も認める。 人は愚かだが、楽しむ能力がある。 人の欲は生きるエネルギー。 生命力、そのもの。 他人を犠牲にしても、おのれだけ満足。 愚かでかわいいではないか。 私なら、利己主義も許す。 私への執着、自我への執着。 人であるかぎ…

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なぜ死は怖い

死が怖いと思う人が多い。 何故、怖いのか。 私が思うに、 死ぬと無になると思っているからだろう。 何が無になるかというと、 私が無になる。 世界は変わらず続く。 私や自分という概念は、 生まれてからの思い込みでつくられるマボロシなのだが。 瞑想して自分の内面を見ていると、 中身がないのに驚く。 感情はある、色々な想念も沸き上がる。 しかし、自分というものは…

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無我

昨日のブログ。 「私がいないのだから、死ぬことはありえない。」 少し説明したい。 人の意識は、どのように生まれるのか。 受精後、胎内体験で記憶が積み重なっていく。 感覚系、主に身体内部の感覚系の記憶が大きい。 誕生後は、運動器官の記憶が増えていく。 手足の動きと、目や耳などの感覚系との連携。 記憶の質や量が飛躍的に増えていく。 脳に蓄積した記憶量が、ある一定のレベルを超…

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私はどこに

老人になり、生活範囲が狭くなる。 私の場合は、ほぼ引きこもり。 自分と家族中心の生活。 一番大事なのは、自分。 と言いたいところだが。 私は、自分などないと考えている。 自分や私というものは、この世にない。 自分がないから、自分が大事というのもありえない。 自分はないが、家族はある。 私の外界は、目で見えるありのまま。 これらは感じることができる。 なぜ、そのように考えるようになったのか…

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死について

ここ一年の体力低下が激しい。 心身の重さを痛感。 身体は重くても、 こころは軽い、とならいいだろうが。 悩みや苦しみや不安など、 こころの重さは、 心身の囚われから生まれる。 例えば、依存症の人は、 心身が囚われている。 薬物やアルコール、 セックスやお金や出世など、いろいろ。 世の中を良くしようとする考えに囚われている人もいる。 こころと身体が、自由でないのが、 依存症。 私という我…

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73年の知恵

73年生きて知ったこと 私というものはいない 自分だと思っているのは 実体のないゆうれいのような 昨日の自分と今日の自分 同じではない 同じと思っているだけ 釈迦は無我と言った 私も同感 私がいないと 死はどうなるのだろう たぶん、快感だけになる 私がなければ 生きるのは楽 ゴールもない 障害物もがない もちろん賢くなれない 愚かなまま 何も残さなくていい 毎日が天国で楽園 しかし…

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いのちとは

いのちは、ロウソクの炎のゆらぎに似ている。 一瞬として同じではない。 常に変化している。 固定していない。 従って、個性や個体と言っても、 不変ではない。 昨日の自分と、今の自分は違う。 まったく別の人間になっている。 不変なものはない。 魂や精神やこころも絶えず変化している。 風が吹けば、炎は消える。 それが死。 我と言えど、不変ではない。 我欲も同じ。 食欲、性欲、金銭欲、出世欲な…

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我はない

今朝は約1時間うとうとしながら、 死者について思いめぐらした。 私の知人たち。 気付かなかったことが いろいろと浮かんでくる。 そうか、そういうことなのか、と。 現実生活で、ほぼ見えていないことが多い。 近くに布教に熱心な寺院がある。 以前にブログで書いた。 https://seikyoji.jimdofree.com/ 月一回、住職とおしゃべりできる機会がある。 いつか行って、意見交換した…

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自力を捨てたところに自然に展開して来る天地

自分の身に起きている事柄に対して、 判断したり意見を言うことは 「もう遅い」ので、なにもしない。 について。 宗教の覚者がどう説明しているかしらと 紐解いていたのだが、 鈴木大拙さんの本のある個所に目が留まった。 「われわれが心理学的に、 この意識の底の底まで、奥の奥へとはいって、 突き破ったところは、 宗教的解釈の領域であらねばならぬ。 底の底まで進んで 破れないというところまで進ん…

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縁起の実感とは

ゆうべ、 玄奘三蔵法師の足跡を辿るテレビ番組を観た。 玄奘は、 唐にいただけでは 仏教の片鱗しかわからないからと、 インド天竺へ旅立ったという。 般若心経なども玄奘の執筆とのことで、 かねてより空や縁起の実感について考えていた私は、 そのヒントがもらえるのではないかと 期待して観ていたが、 最期まで足跡にとどまっただけで終わった。 そんな折、 お気に入りさんが 生きていることの輝きについ…

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無我の意味

(自分の学びです****) キンドル読み放題版でたまたま見つけた 早島鏡正さんの「蓮如」を歎異抄の参考書のように 読んでいる。 他力についての蓮如の説明もすごかったのだが 「無我」についても目からウロコだった。 「無我」のことを私は 「自分がない」と捉えていたのだがそうではない。 蓮如はその著作の中で 「仏法には無我と仰せられ候ふ」 と述べているのだが、 「仏法は念仏にて候ふ」とか ある…