文一6Bの背景―東京大学教養学部発足の頃(1969)
直前の日記で、wakohが東大教養学部に入った頃の、クラスのこと、その時の友人のことに触れた。 だが、考えてみれば、それは教育制度の抜本的改革の一環でもある。どういうことか。 我が国は、1945年8月15日、無条件降伏した。それから、わが国のあらゆる所で、抜本的変革が推し進められることとなった。教育制度の改革は、その一環でもあった。 旧制度は廃止され、新制度が導入された。旧制大学・旧制高…
直前の日記で、wakohが東大教養学部に入った頃の、クラスのこと、その時の友人のことに触れた。 だが、考えてみれば、それは教育制度の抜本的改革の一環でもある。どういうことか。 我が国は、1945年8月15日、無条件降伏した。それから、わが国のあらゆる所で、抜本的変革が推し進められることとなった。教育制度の改革は、その一環でもあった。 旧制度は廃止され、新制度が導入された。旧制大学・旧制高…
「我が家の履歴から」を書きかけてから、既に相当の時日が経過した。(その15)を書いたのは3月8日のことだった。「下山事件?」についてだった。その事件勃発時には、wakohは高3だった。その後相当期間、父は最も深い関係者の一人だった。そのため、新聞記者の不意の来訪など、後を絶たず、受験勉強に落ち着いて勤しみ励むどころではなかった。 当時は塾などは一般的ではなく、自分で勉強するより仕方がなかった…