「信心」の日記一覧

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ほんとうの自信はいまの姿がパーフェクトなのだという信心から生まれる

いまの自分では ほんとうの自信を持つことはできない。 よって、嫉妬や競争心や嫌な態度に対しての バカにしやがってという怒りから 逃れることはできない。 ということになり愕然としたわけだが、 その後考えるともなく考えていて 思いついたことがある。 私たちが普通一般に考える「自信」は たとえば、 何かができるとか、能力が優れているとか 健康や若さや地位や名誉などである。 これらは 生の一辺倒の…

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仏が私を救い出してくださったのだと信じた

先日のこと。 長年にわたる憎悪のようなものに 支配されていたのだが、 そこから抜け出すことができた。 ある思い込みからの脱却が起きたから と考えていたのだが、 ーー一つの件ならばそうとも言えるが、 複数の件での憎悪が一気に解決したので、 どういうことだったのかつらつらと考えている。 問題に行き詰って 自分の首を絞めていた思い込みが 崩れるのもそうなのかもしれ…

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背後に生き生きとした温度のある存在をありありと感じている

支えられていること、 包まれているということが感じられて 死の不安から解放されたと書いた。 なにか簡単な解決だったので こんなもんでいいのだろうかという 不安が湧いたことがある。 師匠にこのことを質問してみると、 師匠からはこんな答えが。 なにか感覚的な感じもします。 気分のいい時だけ支えられている というような危惧はないですか? と。 私はこう答えた…

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乱暴な漁師が失明の果てに建立した川越成田山

 川越成田山(成田山川越別院本行院)は、江戸時代末1853年に石川照温によって開創された。 千葉で半農半漁の生活をしていた石川照温は乱暴者であったが、両眼を失明するともろかった。絶望して何度か自殺を試みたが失敗して そのうち見つけられ、成田山の僧侶に叱られ、千葉県成田市の成田山新勝寺で断食の行に入った。そうすると 不思議に見えなかった両眼が見えるようになった。人格的にも立派になってきた。…

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最後の安心

以前から気になっていた自分の習癖に つぎのようなものがある。 病気になったり体が痛くなって動けない時に 卑屈になって、 とげとげしい気持ちになるということだ。 普段 元気で家事をちゃんとできるときは起きないが、 病気で体が思うように動けない時には 出来ない自分を責める自分がいる。 その投影なのだろうが、 家族は何もやらない自分を 責めたているように感じて 卑屈…

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無意識下において「ナムアミダブツ」と称えた

私たち衆生を救うために、 法蔵菩薩が修行をして阿弥陀仏となられた(第十七願) 救う方法が南無阿弥陀仏と称えることである。 私たちが南無阿弥陀仏と称えるならば救われるのですよ。 ということが 浄土真宗のもっとも大事な教えだという。 いのちについて、 大峯顕さんの本がわかりやすいので 読んでいるのだが、 その個所になると どうしても立ち止まってしまっていた。 立ち止…

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我が体は仏の御いのちなり

**自分の確認として 道元禅師の言葉を借りて ''我が体は仏の御いのちなり'' 他の人から見ると 違うと言われるかもしれないけど、 自分にとってはこれが宗教であり信心である。 臨済禅師の「赤身団上に一無為の真人あり」 も同様。 才市さんの言われる機法一体は 自分の場合はこう捉えている。 「機」は自意識の自分で「法」は体 毎日体と共に生きているのだから…

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救いとはなにか

''自分も死ぬ'' ということが だんだんと身に染み入ってきて、 死が身近になりつつある。 考えるべきことに着手できてよかったと 安堵していたのだが、 宗教の会のテキストを読み返しているうちに 救いとは違う事柄なんだなと思うようになってきた。 いや、正確には救いの一部ということかもしれない。 どこから来てどこへいくのか・・・ 自分を産み出し生かし死なせてい…

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信心の究極

楠恭さんのことば・・ 信心の究極は 柱暦のように人間の生まれぬ先から決まっている 生死生滅を通しての宇宙自然の歩みを受け入れ、 それと我々の心の歩みを同じくすることです。              「妙好人を語る」

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一番大事なものを放棄することによってのみ

先日、日記に 救いとは超越者にお任せする事と書いた。 それは、病気や老化、死に対して すべて神が与えたことと受け入れる事であると。 まことしやかに書いたのだが、実のところ このことは 以前に師匠から聞いたことであり、 それを思い出して ああ、そうだったなと書いただけのもの、 人づてに聞いた話で 自分のものとはなっていないもの、 ということなのだ。 どうすれば生…

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心配でがんじがらめになったのだけど

再び、 老後の心配が襲ってきて、 もがき苦しんでいた時 ー-ゆうべから夜通し浮かんできて よく眠れなかったほど 明け方になり いよいよがんじがらめが 最高潮に達する頃 突然ある思いが湧いてきた。 すべてお任せだったんだっけな・・ 急に 目の前が開けて体が軽くなった。 おもわず 南無阿弥陀仏 と口ずさんでいた。 …

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その辺の軒下で野垂れ死んでもいいと思う

前の日記で 老人ホームや入院したときに 集団生活をちゃんとやっていけるのかどうか という心配があることに気づいた と書いた。 これは前段階があって、 先日のこと。 ある集まりで周囲の人たちが 仲良く談笑しているのに 自分だけ入れなくていたたまれなさが起きた ということがあったのだ。 その後、数時間もの間 ウジウジと悩むという事があって、 その…

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大日蓮展 着、

臨滅度時大曼荼羅、精密な写真が掲載 されている。 コピーだろう。 とまれ日蓮の人柄の偲ばれる曼荼羅、 やっと手にできた。 脇侍が全て読める、これこれ。 これをAIで復活させなきゃねっ。

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大日蓮展 立教開宗750年記念 図録 が発送された、

結構な紙数なので期待している。 NHK 書簡からみた日蓮 の臨滅度時大曼荼羅 を超える解像度の真筆曼荼羅を見られる のかはダメ元で。 在家信仰としては上等の部類なんだと思 う。 唱題が精神衛生で素晴らしいこと を実感することになろうとはっ... 座禅、問答なんてのも精神衛生で著効が あるかも知れないが、承知しない。 俗物な凡人なので、極楽浄土を思い描き ながら念仏を唱えるのはしんどい。 現実…

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生きている今を有り難いと感謝すること

生きづらさとか あまりに苦しい現状から逃れるために 解決策をもとめて遍歴してきた。 先達などから仏教を学んだりして いろいろなことが明らかになって、 最近は、 もう落ち着いてもいいのではないかと 思われるような感じになってきたのだが、 先日の寺訪問のように まだ、ウロウロとしている自分がいる。 宗教書などを読むのが好きなので 空き時間に手持ちの本を読むのだが、 同じ浄土真宗系のものでも、 …

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健康オタクをやめられた

以前から添加物などに興味があって、 少しづつ気を付けるようにしていたのだが、 この数年前から本格的にやりはじめた。 無農薬や無添加 最近は水や油にもこだわった食生活を送っていた。 体にいいのだろうが お金がめちゃくちゃかかる。 お金が続かないので、 年金生活を前にやめることにした。 阿弥陀への信心が芽生えて このことを考えてみると、 いろいろなことが見えてきた。 この食生活は (健康に対…

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現実に従うことが信心

私などは特にそうなのだが、 信心とか信仰というときには、なにか いい気分、いい思いにさせてくれるようなことと と捉える傾向があるが、 そうではない。 ほんとうの信心とは 真実の姿、ありのままの現実に従うこと といっていい。 東正二さんという妙好人の方が 自分の身に起きている真実の姿について、 つぎのように語っている。 ーー東さんは92歳、老衰とリウマチの痛みで ほとんど動くことが出来な…

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ほんとうの信心とは

仏教を学んでいる方から ほんとうの信心についてコメントをいただいた。 ここのところは 自分でも不確かでよくわからないところだったので、 いい機会なので考えている。 その方が言われるには、 ほんとうの信心とは微塵の疑念もない 信じる気持ちという事だ。 その信心は自分の意識に上るようなものではなく、 その先に生じるもので、 阿弥陀から賜る類のものだという。 すごくわかりやすくて 自分も「なる…

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信心とは自覚である

聞法(?)のように 毎日大峯顕さんの本を読んでいるのだが、 以前にはまったく入ってこなかった教えが スルスルと入ってくるようになった。 「本願」の意味がわかってからだ。 なぜあのときから いろいろなことがわかるようになってきたのか? 大峯さんの本を読んでいるうちに 次第に明らかになってきた。 信心が固まったともいえるのだが、 ふつう信じるとか信仰心、信心 などというときには なにかを一生…