さんが書いた連載わが道の日記一覧

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『わが道』(62)学際研究への参加:医学と医療(21世紀へ向けての)(1515)

国際比較研究が一応一段落の後、今度は大きな学際研究への参加を誘われた。タイトルに記した通り21世紀へ向けての医学と医療と題するものである。  当時の東京大学総長、病理学の森亘先生を研究代表者とする大プロジェクトだった。医学者だけではなく、法律・社会・経済・倫理・その他を含めた広い視野から、医学と医療という問題をもう一度考え直そうとするものであった。10班から成るものとなり、各班約10名、併せて約…

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『わが道』(61)対日イメージの研究・余滴:2週間で春夏秋冬を経験(1514)

 対日イメージの研究は、wakoh個人にとっては勿論のこと、東大社会心理学研究室にとっても、いや日本社会心理学会を取ってみても、それまでには全く例を見ない斬新な研究プロジェクトだった。その実験班の責任者として、世界11カ国―日本を含めれば12カ国―で、斉一な条件を固く守りながら、実験を行うことは、前にも触れたように至難の業だった。  当時は勿論インターネットなどあるはずはない。もしもそれがありさ…

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『わが道』(60)国際比較研究②対日イメージの研究(1513)

 直前の日記「日韓コミュニケーション・ギャップの研究」が一つの土台となって、辻村教授は、さらに海外学術調査と特定研究を組み合わせた「世界的規模における対日イメージの研究」を実行に移すこととなった。文科系では、最大級の研究プロジェクトの一つだった。この場合にも、世論調査、各国の歴史・地理の教科書における日本像の新聞学的内容分析とともに、社会心理学的実験をも行うことになった。世論調査の場合は、世界的…

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 『わが道』(59)国際比較研究への参加①日韓コミュニケーション・ギャップに関する研究  (1512)

 直前の日記で、wakohは東大社会心理学研究室に赴任して、4つの研究目標を建て、それを「四本柱」という形で表現した。  その具体的内容を、簡略にではあるが、記してみようか。その一つは三番目の柱として挙げた「国際比較研究」への参加である。wakohは社会心理学の研究とは言っても、専ら対人関係や対人行動に関する研究に従事してきていた。したがって、それまでは国際比較研究を行ったことは殆どなかった。留…

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『わが道』(58)東大時代にwakohの建てた‟四本柱“とは(1511)

 個人的には、一旦辞退したり、躊躇したりした挙句での、東大社会心理学研究室への「格下げ」助教授としての赴任であったが、そうと決まったからには、wakohは如何に非力であるのもせよ、全力を振るって、日本のアカデミックな社会心理学のための捨て石となる決心をしたのだった。ところが、前の前の日記(1509)で記した通り、赴任とほぼ同時に、「東大創立百周年祝賀反対」の文学部を揺るがす大ストライキが起こり、…

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『わが道』(57)東大社会心理学研究室でのwakohの教育の基本姿勢(1510)

 また1週間以上も空いてしまった。検査入院は、滞りなく終えられたのではあるけれども、その後少し気力を失いかけていた。加えて、親戚の高齢者の死去、別の親戚の者のある急性の大病、などもあり、何となく心が晴れなかった。そんなこともあり、ぐずぐずしていた。だが、何時までもそんなことを引きずっていてはなるまい。  直前の日記で、東大社会心理学研究室への移籍について触れた。それを承けて、wakohの志した…

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『わが道』(56)東京大学文学部社会心理学研究室に移籍して(1509)

検査入院などのためにまた中断してしまった。だが、折角なので、『わが道』を再開しようか。ちょうど45歳、wakohの人生の半ばまで来たところでの中断だったから,その意味では、比較的入りやすいのかもしれない。尤も、この「趣味人倶楽部」での話題としては、必ずしも適切ではなかろうが。  一度は辞退した上でのことだった。だが、結局は受け容れることになったからには、wakohなりに全力を尽くそうと決心してい…

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『わが道』(55)(番外編)45年間―今までの人生の半ば―の日記54篇を顧みて(1506)

 wakohが今までに生き、辿ってきた道を『わが道』として書き出してから、その日記は何時しか54篇に達した。ちょうど、ICUでの教員生活を終えた時点までだ。年齢で言うと、ちょうど45歳まで。人生の半ばにあたる。これから、wakohの人生の後半に入るところだ。  ここで一息入れてみることにした。 ・1931年、金沢で出生。wakohの両親、その双方の祖父母のことなど    …

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『わが道』(54)ICUでの最後の1年 及び その後のICUとの関わりの中から(1505)

 本当に異常事態が続いた紛争時代が漸く過ぎた後は、一応平穏な教育環境に戻ったかもごとくでもあった。  ところが、今度はwakoh自身が大変なことになってしまった。  wakohは1972年に教授に昇進した。だが、ICUの学内では、おとなしくしていた。若手教授として、教育にも、研究にも、遅れを取り戻すべく努めていた。  1976年、wakohは自らの所属する教育学科で、学科長に選出されてしまった。…

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『わが道』(53)紛争中のICUでの学生指導・研究会・読書会など(1504)

直前の日記に記したように、wakohはICU在任中、少なくとも5度にわたる大学紛争を経験せざるを得なかった。  そのために失った時間の大きさはいくら悔やんでも悔やみきれないほどだ。なすべき教育も研究も大変に阻害されてしまった。  けれども、それは教員だけの問題ではない。もちろん学生にも甚大な影響を与えた。学部学生であれば、原則4年間で卒業していくはずだし、大学院生であれば、修士課程は2年で修了す…

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『わが道』(52)ICUでの紛争から(1503)

 ちょっと現在のことに戻って、大相撲のことなど書いてしまった。だが、再び『わが道』に向かおう。  wakohはICUの教員となって、その目指すところ、理念には全く共鳴していた。新米教員として、精一杯教育にも当たり、可能な研究も推進しようとしていた。  だが、現実は厳しい。創設以来、世間的にはまだ海のものとも、山のものとも、判らないICUは、それでも創設10年にして、世間的にも可成り認識されるよう…

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『わが道』(51)ニューカム・ターナー・コンヴァ―ス『社会心理学―人間の相互作用の研究』の訳著遂に公刊(1500)

 これから書かんとしているテーマは、ありきたりのものではない。wakohの学徒としての良心・見識にも関わる問題だ。57年間、秘めてきた問題でもある。  そんな大袈裟な、と人は言うかもしれない。たかが翻訳の出版ではないかと。そうではない。心してお読みくだされば有り難い。  wakohは、この「趣味人倶楽部」での日記の中で、昨年2020年10月15日の日記を「1ページで凝縮表現した学徒としての70…

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『わが道』(50)第20回国際心理学会議(ICP)のシンポジウムでの研究発表(1499)

 わが国で初の国際心理学会議第20回大会が1972年に開催された。会場は、主として当時新築されたばかりの国立教育会館においてだった。だが、wakohは当時ICUに勤めていたので、その準備の状況などあまり知らないままだった。そういう情報に接することがなかったからである。  ところが、ある時、準備委員のお一人であったのであろう、東大教養学部教授の社会心理学者水原泰介先生から連絡が入った。ぜひ緊急にお…

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『わが道』(49)ICUでの研究から(1498)

 学徒たるもの研究は教育と共に必須である。日本の社会心理学の研究者の中には、「俺は研究一筋だ。教育なぞは必要悪だ」などと嘯く人もいた。だが、wakohがイリノイ大学で学んだのは、第一級の研究者も実に教育にも熱心だということである。だから、wakoh自身は、えらそうなことを言えた義理ではないけれども、教育にも熱心に当たってきたつもりである。  けれども、だからと言って研究はどうでもいいなどと思うは…

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『わが道』(48)ICUでの教育から(1497)

 最初に念のためお断りしておきたい。今まで、何の気もなく、ICUと記してきたのだが、ICUとは医療で、Intensive Care Unitの略称として用いられていることが多いようである。ここでのICUとは、もちろんそうではなくてInternational Christian Universityの略称であり、正式名称は「国際基督教大学」である。英語の略称のICUにすっかり慣れてしまっているので…

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『わが道』(47)(番外編)出てきた旅券(1496)

『わが道』でイリノイでイリノイ大学留学記を記そうとした時、念のためその時の旅券を取り出してみようと思い立った。外国旅行の場合、旅券は必須なものだからである。だが、帰国すれば、差し当たって用はない。と言って、物を一気に整理したりすることなく、保存している気味の多いwakohは、旅券を捨てるはずがない。どこかに保存しているはずだ。だが、探した時点では、その後の何冊にもなる旅券は見つかったものの、米国…

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『わが道』(46)ICUの専任教員としての1年目(1495)

 直前の日記では、アメリカ・イリノイ大学からの帰国から国際基督教大学教員として、その構内住宅に入居するまでのことを記した。現況でいろいろなことが相次いで起こるため、ICU教員としての仕事始めの事にも暫く入れずにいた。だが、そのままになってしまうのも惜しい。  そこで、何とかして戻ろうかとしているところだ。だが、wakohにとっては、ICUは全く初めての大学であるはずがない。その趣きの一端は、既に…

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『わが道』(45)帰国からICUに赴任するまで(1494)

このところ『わが道』ばかりを書き、しかもイリノイ留学記の比重が大きくなってしまった。  だが、それから約60年後の今なお、wakohはまだ生きてはいる。そこで、思い立って、『わが道』と現在のwakohの2本立てにしようとした。  すると、たちまち大事件の想起、長年年間会員を続けてきていた音楽会の継続断念、80余年にわたる友人のコロナ禍による死去、といったことなど、書くことだらけになってしまった。…

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『わが道』(44)イリノイ大学留学記―余滴(1490)

 これまでイリノイ大学への留学記を大分書いてきた。ようやく帰国に漕ぎ着けた。ちょっと振り返ってみた。『わが道』を書き始めて、前回までで43篇。そのうち、『わが道』の25からは、中途に1篇だけそれ以外―現在のデイサ―ビスに関わるもの―だが、あとの全ては、イリノイ大学での4年間のことを書いてきてしまったようだ。それが結局17篇も占めている。しかも、だんだん長くなってしまったきらいがある。一体どうして…

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『わが道』(43)イリノイ大学での最後の1年⑥帰国への道程(1489)

(前を承けて)それらすべてを適切にこなし、イリノイ大学でお世話になった先生方にきちんとお礼の挨拶をし、友人たちや秘書などにも別れを告げ、日本人でお世話になった方々ともお別れパーティなどもした上、イリノイ大学シャンペインの地を発ったのは、1964年7月6日だった。池田君たちの見送りを受け、列車で、3時間半でシカゴ着。  夏と言うのに存外気温が低く、シカゴで綿のガーディガンを買ったりもした。  夜シ…