封建制の壁を越えて抜擢された会津藩家老・山川重英(しげふさ。山川浩の祖父)
会津藩が薩長に敗れ斗南藩(現在の青森県 下北・八甲田地方)へ移封になった時、 大参事(家老職)として藩政を任されたのは山川 浩である。大参事になる前は「山川大蔵」を名乗っていた。東京帝大総長になった山川健次郎 と 津田梅子らとともに米国女子留学生となり、のち大山巌の妻となって「鹿鳴館の華」と謳われた大山捨松の兄である。 その祖父が山川重英である。山川家は大昔は織田信長に仕えたが、何らかの理…
会津藩が薩長に敗れ斗南藩(現在の青森県 下北・八甲田地方)へ移封になった時、 大参事(家老職)として藩政を任されたのは山川 浩である。大参事になる前は「山川大蔵」を名乗っていた。東京帝大総長になった山川健次郎 と 津田梅子らとともに米国女子留学生となり、のち大山巌の妻となって「鹿鳴館の華」と謳われた大山捨松の兄である。 その祖父が山川重英である。山川家は大昔は織田信長に仕えたが、何らかの理…
(3) 新撰組の生き残り 新撰組は京都守護職の下にあって、尊王攘夷の過激派を取り締まる先頭に立った人たちである。彼らは決して「時代遅れ」ではなく、むしろ 渋沢栄一らと同じ時代の最先端に立っていた裕福な農家や下級武士の出身者たちであった。剣術だけに頼ることはなく、銃も使用した。 しかし、戦いで多くが死に、戊辰戦争後の残党狩りもあり、天寿を全うした者は少ない。沖田総司は戦いの中で病死し、近藤…
(2) 山川浩の兄弟姉妹 中村彰彦 著「山川家の兄弟・浩と健次郎」 姉 山川二葉 明治元年~2年に戦われた戊辰戦争で会津若松城防衛戦に参加した。会津藩家老・梶原平馬と結婚していたが、降伏後 離別。息子の景清は二葉が養育した。景清は海軍軍医として呉海軍工廠軍医長などを務め、軍医大佐に昇進した。 明治10年(1877年)より女子高等師範学校(現 お茶の水大)に同郷の校長・…
会津藩家老 と 山川家の人々 (1) 会津藩家老 会津藩家老は世襲制で身分意識が強く、名門9家の者しか就けなかった。 ① 西郷頼母 西郷家は藩家の分家で第一の家柄であった。 30歳で家督と家老職(家禄1,700石)を継いで藩主・松平容保に仕えた。幕府から京都守護職就任を要請された容保に、政局に巻き込まれる懸念から辞退を進言し容保の怒り…