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よくあるご質問

すべての道はローマに通ず

堀田善衛著『歴史の長い影』筑摩書房、饗庭孝男著『中世を歩く 京都の古寺』小沢書店、を読了。2日前に読み終わっていたのだけれど、書くことを億劫に感じていたのは血圧のせいだろうか。最近は少々高めなのだ。
 前書は、堀田さんが8年間に亘るヨーロッパでの生活の中で、現代から中世を見るという格好の環境で感じ取ったことを、多くは朝日新聞に書き送った原稿からなっている。
 柱立ては「歴史曼荼羅」(3編)、「在欧通信」(11編)、大江健三郎氏との往復書簡(7編)、「人、親しければ」(9編)からなっている。
 75年に『ゴヤ』の執筆が終わり、最初は北スペインのアストゥリアスという人口250人(牛も同じ数)の田舎村での暮らし。ここはケルト民族の流れで祭りにはバグ・パイプ(風笛)を吹いているので、「なぜギターを弾かないんだ」と訊くと、「あんなものは、南の方のアラビア人の弾くものだ」と。
 その後、マドリード、グラナダに二年ほどいた後、バルセローナに4年住まわれた。その間に奥方の運転でヨーロッパ中を「転げて歩いた」と書かれている。
 戦後間もなくのまだヨーロッパ旅行が一般化していなかった頃、ある代議士がローマに行ってローマ帝国時代のものばかり見せられて、「東京は復興したけれど、ローマは復興しとらんな」、さらにパリに行ってつくづくセーヌ河を眺め、「ノートルダム、ノートルダムというけれど、どこにもダムなんかないじゃないか」と言ったという。
 いや、このことは笑えない。ロマンティッシェ・ストラーセ(「あらゆる道はローマに通ず」のその道)を「ロマンチック街道」と理解しているのと同じで、別にロマンチックとかロマンティシズムとは何の関係もないのに・・。
 ま、事実ロマンチックではあるけれど。
 そのロマンティッシェ・ストラーセの付近の森、その森の時代のヨーロッパには二つのメンタリティがあった。一つは森の中で暮らしていることの安心さかげん――他の人が入ってこないだろうという感覚、これが個人主義を生んだ源泉。もう一つは「あらゆる道はローマに通ず」に象徴される普遍性への希求。よく解る話だと思う。
 「普遍」と「抗議」、「正統」と「異端」、カトリックとプロテスタントについて言及している。
 キリストは「常に貧しくあれ」と言ったにもかかわらず、お寺を金銀財宝で飾るとは何事であるか。こうした純粋派、純潔派が出てくると、これを叩き潰さない限り正統の方が成り立たなくなってくる危険がある。日本でも弘法大師の国家宗教に対して、法然、親鸞が現われて宗教を国家から個人の側に奪還しようと考えた。つまり公教としての佛教=カトリックとプロテスタントに当たる。法然はやわらかい人だが、親鸞に至っては明らかに異端派、抗議派だと。
 堀田さんはこうした日本中世と西欧中世を貫いて透視する確かな歴史眼をもって、中世の佇まいの中に立ってその歴史を語りながら、現代の危機の具象性を照出している。
 カタルーニャの地で、平安末期鎌倉初期の宮廷歌人、藤原定家の日記である『名月記』を読み返し、『定家名月記私抄』を書き始める。西欧中世にはまだ「国家」というものがはっきりとは成立していなかった。従って国境などというものも存在していないが、「宗教」という民族国家などよりももっと大規模で普遍的なものが、一足先に存在していた。
 『ゴヤ』を書いているうちに、カトリックに撲滅されたカタリ派と称される過激な異端キリスト教の問題が著者に想起され、それも定家が西欧中世を呼び、法然、親鸞が西欧異端派を呼び出してくれたのだという。
 それが小説の形となったのが『路上の人』という作品。
 いずれ再読しよう。

 後書は、饗庭先生が京都の浄瑠璃寺、神護寺、高山寺、龍安寺と妙心寺、寂光院と三千院、仁和寺、平等院、醍醐寺と法界寺など16の古寺を巡る思索の散歩を綴ったもの。

 「こまかな雨が降っていた。煙ったような、うっすらとしたその雨の靄をとおして、南山城の、緩やかで、円やかな丘陵の連なりが見え、ところどころ、道をまがったところから思いがけなく小さな部落があらわれ、手入れのゆきとどいた田畑が低い崖の下にひろがる。柿の実の赤さが、雨の靄のなかでうるんで見え、黄ばみはじめた秋の風景をなごやかにひきしめてくれる。浄瑠璃寺をやさしく抱く世界とはこのようなたたずまいである」。

 こんな文章を読んでいると、しっとりと幸せに浸っている心地がする。血圧も鎮まってくれるような・・・。

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