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よくあるご質問

つくしたがかれる

3歳3ヶ月になる孫は、いくら修正しても「靴下」を「つくした」という。
 玄関で長靴を脱ぐと少し靴下がずり落ちる。それを「つくしたがかれた」と言って気にする。
 言葉のひっくり返りは言いづらさなどで解るのだが、「かれた」の方は不可解。
 あるいは散歩のとき背中の孫に、寒くなって木の葉が枯れて落ちてくる話をしたことがあるので、もしかしたら「落ちる」ことを「かれる」と理解してしまったのではないか。
 とすれば、じいじの説明が悪かったことになる。

 「新しい」も上代ではアラタシ(新)であった。
 万葉集最後の家持の歌も
 あらたしき年の始の初春の 今日ふる雪のいや重け吉事 (4516)
 上代では、惜しい、大切な、もったいないという意味であった。中古のはじめから、アタラシは「新」の意になった。
 アラタシは、現立(あらたち)の意か。
 (堀井令以知編『語源大辞典』東京堂出版)

 大野 晋著『日本語の年輪』新潮文庫に、この「あたらしい」について書かれている。
 アタラシイという言葉は、古くから「新」という意味を表すことばではなかった。これは経済行為に伴って発達して来た言葉で、かつて物々交換の際に、値打ちが同じでなくてはならないので、甲のものが乙のものにアタルとき、物の値段のアタヒというのが、このアタルと関係した。これを変形させてアタラシイという言葉が作られ、相当なもの、値打ちがあると感嘆する意味を表した。それゆえ「あたらしき清きその名」は、家柄の立派な清い名であるということ、すぐれたもの、端から見ていて、何とかその立派さ、見事さに応じるようにしたいという気持ちをいうのが「あたらし」であった。
 「あたらすぐれた人を亡くした」とは、その見事な人が、その見事さに不相応に早世したときなどに言う。俗に言うと、もったいないになる。古語では「をし」にあたる。
 一方、アタラシイに音の似ているアラタシがある。これは開墾したばかりの田をいう。
 作られたばかりの田のような感じだという意味。これらの音が似ていることから混同が起こって、平安時代末の『類聚名義抄』という漢和字書に「新」にアタラシとアラタシとの二つの読み仮名がついているという。後にアラタは物が現われるのアラと関係し、鎌倉時代になって、神や仏の霊験がアラタカであるという方へ行ってしまい、「新しい」の方は、もっぱらアタラシイにゆずってしまった。

 子どもと話していると面白い。
 以前に書いたことがあるが、おもちゃを買いに行って、通勤電車を買うというので、父親が「新幹線のほうがよくない? それつまらないでしょう」と言ったときに、「つまるー ! 」。 「ない」をつけると否定語になることを感じて使ったに違いない。
 今電話がきた。「じいじー、これから行ってもいい?」。

コメント

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