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よくあるご質問

10、ピカソの《ゲルニカ》

スペイン内乱の最中の1937年、パリの万国博覧会スペイン館の壁画を共和国政府から依頼されていたピカソは、この事件に心の芯から憤怒にかられ、強烈に反応した。
 ゲルニカの爆撃が報道機関によって伝えられると、フランコ反乱軍に対する非難の声が世界中で巻き起こったのに対し、フランコ側は「ゲルニカで都市を破壊し、子どもや尼僧まで殺傷したのは、我々に敵対するバスク民族主義者やアナーキストの犯行であり、ゲルニカ爆撃は捏造である」と、謀略宣伝に努めたのであったが。
 ピカソは5月1日、事件を知ってから一週間が経つか経たないうちに《ゲルニカ》制作に着手し、1ヶ月の間不眠不休で心血を注いでこの大作を描きあげた。その一ヶ月間にはさまざまな描き直しが施されているが、唯一といっていい直しのないのは母と子の、いわば聖母子像ともいうべきところだけで、他は大幅な修正が加えられて6月4日に完成した。
 その制作プロセスは、当時愛人であったカメラマンでもあり画家のドラ・マールが写真に残しておいてくれたおかげで見ることができるのだが、その写真は≪ゲルニカ≫の向いの壁に並んでいた。
 先を急いで書き進んでしまったが、我々の行動の順序はこうだ。2階から場内に入って、最初の部屋はミロの作品が並んでいたが、軽く説明を受けたあと、K子さんはまたもや「どうぞ左を見ないでお進みください。感動が全く違いますから」と、右手の小部屋に案内した。
 そこでは1937年のドキュメント映像が流れていた。
 スペイン市民戦争を共和国政府が世界に訴える映像として、当時、共和国側のフランス大使スタッフとして東奔西走していた映画監督のルイス・ブニュエルが撮影した実写ドキュメントで、万博のスペイン館で上映していたものと全く同じものだという。ルイス・ブニュエル監督というと、カトリーヌ・ドヌーブの『昼顔』を観たことがある。
 その映像スクリーンの真向かいに設置されているのが、《ゲルニカ》であった。
 
 ピカソは祖国の惨禍をスペイン人の深層心理に根ざした闘牛の象徴性に託して、牡牛をファシズムに、いななく馬を人民というアングロサクソン系の解釈と、逆に前者を人民戦線、後者をフランコ主義者と解釈するスペイン系の解釈があると、スペイン美術史の研究家である神吉敬三先生は紹介している。
 いずれにしても絵の左、亡き子を抱いて嘆く母親の姿は、宗教画を描かなかったといわれるピカソの唯一の宗教画かもしれない。
 《ゲルニカ》はピカソの意思で、スペインに民主化がもたらされるまでとニューヨーク近代美術館に寄託され、そして自らは生涯スペインに戻ることはなかった。
 フランコの死後、民主化路線に自信をもったスペイン政府は、国王を先頭にアメリカとの返還交渉を経て1981年にやっと里帰りした。そしてプラド美術館別館から、92年に現在のソフィア王妃芸術センターへ。それまで正面と上下左右を出窓のような防弾ガラスで覆われ、ガラス越しにしか観られなかったこの絵も、一昨年、防弾ガラスも取り払われて直接観ることができるようになった。われわれが観ている間にも、余りに近づきすぎる人がいてブザーが鳴っていたが。

 人民戦線政府側を援助した陣営の中で有名な人々に、『誰がために鐘は鳴る』を書いたヘミングウェイや、共和国のために戦ったフランスの作家で政治家(ドゴール政権下で長い間文化相を務めた)アンドレ・マルロー、『カタロニア賛歌』を書いたイギリスの作家ジョージ・オーウェルなどがいる。
 しかし1938年秋、政府側の敗色が濃くなり、国際旅団は国際連盟から解散を命じられて、バルセロナ駅から列車でスペインを去っていった。
 このとき、炭鉱夫の妻で国会議員となり、マドリーの攻防戦で「膝を屈して生きるよりは立ったまま死ぬ方がまし」と訴えて「受難華」と異名をとったドロレス・イバルリは、
 《あなた方は異なった言葉を話していましたが、私たちは互いに理解しあえました。あなた方は胸を張って去っていくことができるのです。あなた方は歴史です。あなた方は伝説です。 われわれがあなた方を忘れることはありません。
 そして、平和というオリーブの木が、スペイン共和国の勝利の月桂冠にまじって、再び葉で覆われたとき、どうかまた戻ってきてください!》と。

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