渡来氏族の謎(5)

AD660年(斉明6)、唐・新羅連合軍によって百済は滅亡した。

唐が高句麗征伐に兵を向けている間に、百済の生き残りが復活を画策し、

大和政権に対し救援軍の派遣と、質として倭国に来ていた百済最後の王・義慈王の子の余豊璋の返還を求めて来た。

これに応えて豊璋とともに大軍を派遣したが、待ち構えていた唐軍に壊滅的惨敗を喫し、豊璋は高句麗に逃れた。

これにより、百済遺民の多くは倭に亡命した。

「紀」には、百済の上流貴族の名が多く記されている。

彼らは、兵法・薬・陰陽などに通じ、筑紫の大野城などの築城に携わった。

彼らの活動する時期は、律令国家の成立の