連載:倭人伝の真実に迫る

9.邪馬台国論争の変遷2

前回、大正時代までを概観した。倭人伝の道筋を連続してつなぐ説は、比定した国の地理的関係が満足できない。また、倭人伝の邪馬壹国の「壹」が「臺」、「台」に変化したのは、皇国史観の影響もあるのだろうが単に後漢書の「邪馬臺」が「ヤマト」と読めるだけで、深い考察がなされたものではないようである。昭和以降の説はどうだろうか。

⓽『邪馬台国は福岡県山門郡にあらず』1927(昭和2)年、安藤正直。道筋放射説の元祖のようである。添付図のように末盧国から東南、佐賀平野に抜けて筑後川を渡った山門を伊都にした。伊都から各道筋を独立させて奴、不弥、投馬、邪馬台へ別々に辿る説であ