三国志本伝の長短里混在について、すべて調べたのでまとめておく。倭人伝の里程は短里で、明帝の「改暦復古」によるもの。実際には曹爽が240年の魏使に短里で里程報告書を作らせた。短里の使用は景初(237~239)から正始(240~240)年間で、それ以後の使用は後述の条件をクリアできるか否かにかかっている。さらに西晋の知識人は短里を知っており、読者は三国志の長短里を区別することができた。 34.1 …
倭人伝は魏志に収録されているので、魏と関係がない国の蜀志や呉志の里については念のために見ておく、というスタンスである。今回は蜀志を見る。この中の「里」は全部で24例あった。このうち前回の「涪は成都から360里」を除いて、「里の長さ」が推定できるものは7例で、すべて長里であった。 32.1 蜀志の里 ●益州は千里も広がる天の庫(諸葛亮伝 200年) 天の庫を四川盆地とみれば、16万㎢、400k…
魏の景初(237~239)と正始(240~249)年代は陳寿が長里をぼかしており、短里を意識していた可能性が高いことがわかった。今回は明帝の改暦以前の「里」について見る。後漢代は長里だが魏建国(220年)以後は長短里が混在している。 尚、ネットの「三国志原文検索」と前回に紹介したが正しくは「三国志全文検索」であり、日記を修正した。この「全文検索」で原文も見ることができて重宝しているが、「原…
何度も書くが、書くうちに焦点が絞られてくるだろう。もう一度「陳寿の仕掛け」の観点から魏志の長短里について整理する。「短里の存在」は谷本茂氏によって証明され、倭人伝の「短里」は日記#26で証明できた。現代の地図でその道筋も短里で再現できたので、倭人伝の「短里」は確定事項と思っている。ここまでくると三国志本伝の長短里混在を重く考える必要がなくなったと思っているが、短里について本伝でも陳寿が何かしら仕…
邪馬台国は本来、魏志倭人伝の中で論じられるべきだが、近畿説では後漢書が表舞台にでてくる場合がある。白鳥氏は「後漢書の曲筆によって後人を誤らせた」と述べているが「誤らせた」のではなく、どうも利用された感がある。今回は、邪馬台国論争と後漢書について考えてみる。 28.1 陳寿と范曄が入れ替わった? 学界の論文を読んでいないので本当のところはよくわからないが、数年前まで私のような一般大衆向けに刊行さ…
前回、会稽東治は短里を使って海州の西、中国の南皮県から東南に7700里の場所と計算し、陳寿が理論武装をした、と書いた。では、この7700短里を西晋の人達は理解できたのだろうか。この点について『語録』という西晋代の史書に短里が使われていたことが古田史学会編の『邪馬壹国の歴史学』で紹介されていた。当時の西晋は短里を使っていたのである。ところで、短里の7700里はある意味爆弾でもある。もしかしたら、こ…