さんが書いた連載倭人伝の真実に迫るの日記一覧

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35. 倭人伝の方向は 目的地か出発方向か

最近、『邪馬台国は別府温泉だった』を読んだ。本書は短里で解読しており、これはよい。ただ、倭人伝記載の方向を「目的地の方向」と定義し、通説や私の「末盧国は唐津、伊都国は糸島地域」が否定されていた。ここは看過できないので、異議を唱えさせていただく。  本書の狗邪韓国は私が考えた朝鮮半島南端の金海よりも少し西の馬山になっている。馬山から次は対馬となるが、対馬は馬山の東南に位置する。本書の定義に従えば、…

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34. なぜ倭人伝は短里なのか 三国志の長短里問題の結論 

三国志本伝の長短里混在について、すべて調べたのでまとめておく。倭人伝の里程は短里で、明帝の「改暦復古」によるもの。実際には曹爽が240年の魏使に短里で里程報告書を作らせた。短里の使用は景初(237~239)から正始(240~240)年間で、それ以後の使用は後述の条件をクリアできるか否かにかかっている。さらに西晋の知識人は短里を知っており、読者は三国志の長短里を区別することができた。 34.1 …

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33. 呉志の「里」

三国志の「里」も最後の呉志に入ってきた。ここには「短里」が出現している。「里」は全部で30例、そのうち長短里の区別ができそうなのは5例で、1例は短里であった。  また、「周旋」の意味は「周囲を巡る」でよいことがわかった。さらに訳本で「昼夜兼行」と訳されている蜀志と呉志の原文は字が異なっており、これについての考察と、三国志の中で目にとまった「戸」と「家」についても記した。 33.1 長里の4例 …

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32. 蜀志の「里」

倭人伝は魏志に収録されているので、魏と関係がない国の蜀志や呉志の里については念のために見ておく、というスタンスである。今回は蜀志を見る。この中の「里」は全部で24例あった。このうち前回の「涪は成都から360里」を除いて、「里の長さ」が推定できるものは7例で、すべて長里であった。 32.1 蜀志の里 ●益州は千里も広がる天の庫(諸葛亮伝 200年)  天の庫を四川盆地とみれば、16万㎢、400k…

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31. 魏志の「里」(3) 嘉平元(249)年以後

魏志の短里について正始年代まで見てきたが、短里の使用は明帝の改暦による可能性があるものの、その死後に実権を握った曹爽の影響が大きいことがわかった。今回は曹爽没後から魏滅亡(265年)までの期間について見る。この間の「里」は13例だが、AB2点間距離の記載はゼロで、長里か短里かの明確な区別はできなかった。従って、魏志の中では正始元(240)年から魏滅亡まで、陳寿は明確な長里を使用していないと言え、…

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30. 魏志の「里」(2) 236年以前

魏の景初(237~239)と正始(240~249)年代は陳寿が長里をぼかしており、短里を意識していた可能性が高いことがわかった。今回は明帝の改暦以前の「里」について見る。後漢代は長里だが魏建国(220年)以後は長短里が混在している。    尚、ネットの「三国志原文検索」と前回に紹介したが正しくは「三国志全文検索」であり、日記を修正した。この「全文検索」で原文も見ることができて重宝しているが、「原…

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29. 魏志の「里」について(1)

何度も書くが、書くうちに焦点が絞られてくるだろう。もう一度「陳寿の仕掛け」の観点から魏志の長短里について整理する。「短里の存在」は谷本茂氏によって証明され、倭人伝の「短里」は日記#26で証明できた。現代の地図でその道筋も短里で再現できたので、倭人伝の「短里」は確定事項と思っている。ここまでくると三国志本伝の長短里混在を重く考える必要がなくなったと思っているが、短里について本伝でも陳寿が何かしら仕…

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28. 邪馬台国論争と後漢書

邪馬台国は本来、魏志倭人伝の中で論じられるべきだが、近畿説では後漢書が表舞台にでてくる場合がある。白鳥氏は「後漢書の曲筆によって後人を誤らせた」と述べているが「誤らせた」のではなく、どうも利用された感がある。今回は、邪馬台国論争と後漢書について考えてみる。 28.1 陳寿と范曄が入れ替わった? 学界の論文を読んでいないので本当のところはよくわからないが、数年前まで私のような一般大衆向けに刊行さ…

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27. 後漢書倭伝の邪馬台国はトンチンカン

倭人伝の里程解読が一段落したので、今回は范曄(はんよう)の後漢書倭伝を考える。倭人伝の「邪馬壹国」を「邪馬臺国」、「会稽東治」を「会稽東冶」と書いたのがこの後漢書である。白鳥庫吉氏は「范曄が倭人伝を読み誤り曲筆したがために後人をして誤らしめるに至った」と記している。范曄は「女王国が今の中国、海南島に近い」と誤読している。 ●倭は韓の東南大海の中に在り。山島に依りて居を為し、凡そ百余国有り。武帝の…

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26. 倭人伝の短里証明

倭人伝の里程は短里ですべて解決し、「会稽東治」から倭人伝の短里問題が解決する。「短里の存在」そのものは谷本茂氏によって立証されており、三国志本伝や西晋の史書『呉録』にも短里が現れている。問題は「短里」という記述が倭人伝になく、それを盾にとって「倭人伝の短里は容認できない」という論者がいることである。ところが陳寿は、「会稽東治」で倭人伝の「里」は短里であることを暗示していた。その視点で再度整理して…

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25. 東、海を渡る千余里(本州と四国)

女王国は東西南北が海で「島」だったと締めくくった倭人伝最後の里程記事にはいる。その前に、会稽東治の緯度を書き誤っていた。正しくは北緯33度20分でした。  さて、日本列島には邪馬壹国連合(女王国)の他にも倭人の国があった。九州南部には狗奴国があったが、本州、四国にも別の国々があった。それが、倭人伝の地理的最終段に記されている。 ●女王国の東、海を渡る千余里、復(また)国(々)有り、皆倭種。又、朱…

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24. 西晋と短里

前回、会稽東治は短里を使って海州の西、中国の南皮県から東南に7700里の場所と計算し、陳寿が理論武装をした、と書いた。では、この7700短里を西晋の人達は理解できたのだろうか。この点について『語録』という西晋代の史書に短里が使われていたことが古田史学会編の『邪馬壹国の歴史学』で紹介されていた。当時の西晋は短里を使っていたのである。ところで、短里の7700里はある意味爆弾でもある。もしかしたら、こ…

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23. 会稽東治の場所はどこだろう

「倭人伝の会稽東治(ち)が現在読んでいる『正史三国志』でも会稽東冶(や)に改変されているのが残念である。なぜなら、「会稽東治」は女王国が帯方の海州から7700里と陳寿が計算して導いた場所だったからである。それは会稽山近くの魏が治めていた東海岸、つまり会稽東治であり、「陳寿の仕掛け」を読み解くことでわかる。 ●(女王国は)其の道里を計るに当(まさ)に会稽東治の東に在り。 23.1 「方」による陳…

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22. 女王国の旁国を比定する

筑後平野と佐賀平野に邪馬壹国の旁国、21国が広がっている。添付図に各国を示した。末盧国の唐津から旁国を含めた邪馬壹国の周囲を巡り唐津に戻ると5000余短里となる。 旁国の比定には次の仮定をおいた。①旁国は筑後、佐賀平野に展開し現在の地名にその痕跡が残っている。②国名は倭人の言葉を中国人が聞いた中国製倭語。③倭人の言葉は縄文語を継承したもので「ズーズー弁」に近い(『縄文語の発見』小泉保)。④倭語の…

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21. 邪馬台国と邪馬壹国、どちらが正しい国名か

今、九州は大雨で大変な状況。一日も早く雨が上がり復興されることを願っている。 さて、投馬国を南に抜けた両筑平野が邪馬壹国だが、なぜ「壹」なのか? 以前に司馬懿が卑弥呼の霊力に恐れおののいていたと説明した。「司馬懿」と「邪馬壹」、なんとなく響きが似ていないだろうか。「邪馬壹」は「懿」の邪魔をしたと読めるし、逆に司馬懿をオチョクッたのかもしれない。「懿」と「壹」は微妙に発音が違うようだが、もう一度、…

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20. 国境の狭い谷間を抜けると邪馬壹国であった

投馬国の南、水城のあたりを南に抜けると邪馬壹国である。安本美典氏が統計学で導いた朝倉地方でもある。水城は狭い谷間を塞いだ7世紀の防壁で幅が約1.2km。倭人伝当時はもっと狭かっただろう。「国境の狭い谷間をぬけると、邪馬壹国であった」と彼の作家だったら書いたかもしれない。 ●南、邪馬壹国に至る、女王の都する所。水行十日、陸行一月 投馬国の南が邪馬壹国、つまり投馬国は邪馬壹国の北となり邦光史郎氏の課…

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19. 水行20日、郡より投馬国に至る

前回、不弥国の次、「南、投馬国に至る、水行二十日」の里程を帯方郡からと説明した。 では、実際にどのような航路だったのか、探せばどなたかが具体的な道筋を提示されていると思うが、見当たらないので添付図のように考えてみた。概ね17日の航海であり補給など考慮すれば「水行20日」は妥当である。過去の野生号などの情報から、沿岸航法は潮汐の影響を受けるので、できるだけ海岸から離れて帆走する航路で考えた。また1…

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18. 投馬国と邪馬壹国

いよいよ女王国の北にある投馬国に向かう。不弥国(福岡城址)から冷泉津の海岸沿いを南に抜けると、投馬国である。さらに投馬国の南が女王国なので、先ずは全体を俯瞰してみる。投馬国は冷泉津に面した博多港を有した福岡平野であり、その南の狭い谷間だった水城あたりを南に抜けた場所が邪馬壹国(女王国)であった。不弥国は冷泉津と草香江、両方の貿易船を監視するに最適な場所だった。福岡城や鴻臚館跡などを見ると、その広…

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17. 不弥国と南、投馬国に至る

分岐点から奴国へ向かう東南の道は道筋外であることがわかった。「分かれ道」を東へ出て不弥国へ向かうことになる。案外、邪馬台国論争で軽視されているが不弥国の場所は倭人伝解読最大の難所の一つでもあり、ここが決まれば投馬国の場所も明らかになる。 ●東行、不弥国に至る、百里・・千余家あり。 ●南、投馬国に至る、水行二十日・・五万余戸ばかり。 この文章は不弥国を南に出れば投馬国と読めるが、いきなり「水行20…

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16. 東南(奴国)と東行(不弥国)を考える

いよいよ奴国、不弥国である。邪馬台国論争の中で伊都国まではほぼ決まっているが、ここから先が未解決で未知の領域である。倭人伝をよく見ると、ここに「陳寿の仕掛け」が仕込まれている。古の旅人は東南と東のどちらの道を選んだのだろうか。 ●東南奴国に至る、百里・・二万余戸あり。 ●東行、不弥国に至る、百里・・千余家あり。 この二つの文章に「何かおかしい!」と感じるところがある。最初に気づいたのは古田氏だっ…