「父との思い出」の日記一覧

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親父の居酒屋(記憶を基にした半分フィクションです)

親父の居酒屋 「らっしゃいっ!」 馴染みの居酒屋。家から駅に向かう途中のガード下に、いつからあるのかも判らない古い店。 煤汚れた壁に天井。座るたびに、ギシギシ音を立てる椅子。下半分が、埃のこびりついた醤油さし。いつのものか判らない古いポスター。今は見ることも無くなった女優の色褪せた笑顔が壁を飾っている。 「えっと、取りあえずビール」 「あいよっ、生中ねっ」 店主のおやっさんの威勢の良い声。いつ…

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戦争と平和の時代を生きた 父親

私の父親は 優しさと厳しさを持っていました。 子供の頃は 大きなタコを作って一緒にあげてくれたり 小屋を作って鳩を買ってくれました。 父親の思い出は何と言っても 戦争体験です 満州から南京へ 渡り 沖縄で終戦を迎えました たまたま 沖縄の 海岸の前の洞穴に 逃げ込んだため 生きて 日本に帰ることができました 日本は平和だから とても喜んでいました。 お盆に 親戚の人が 我が家に集まると…

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父との思い出

私の父との思い出は、東日本大震災の大津波で実家が松林の松が家中な刺さっており 幸いにして両親は孫の車で私の家迄逃げて来たので、その日から父は私の家で5ヶ月位 一緒に住んでいました 父は、私の作る料理を美味しい、美味しいと食べてくれて本当に親孝行出来て良かったなあーと思いました 父は専業農家だったので一緒に出掛けた思い出はなかったので、私は父と一緒に生活出来て近くの居酒屋さんとか行けたのが本当に嬉…

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「浦富海岸」で海水浴

 父は海が好きで 夏になると毎年家族で泳ぎに行った  山陰の海は 奥に行くほど奇麗なので  車を買ってからは 猶のこと奥に行った   白砂青松の浜で泳ぐのは快適だ  海の近くを 山陰線が高く通る場所があり  そこで家族四人が連なって  プカプカ浮いていた記憶がある  ちょうど通りかかった列車に手を振ったら  手を振り返してくれた  浜で飯盒炊爨をし 缶詰をおかずに  熱々の…

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“無益な殺生をするな!!” 父親の訓え

父親が56歳の時 5男5女の10人の兄弟姉妹の末っ子で生まれた私は、父親の存在はまるで爺様そのものだった。 大正生まれの父親は厳格で、殆ど接することは少なかったが、何度も言われたことばが、タイトルにある言葉だった。 農家だから卵を産ませるために、鶏を飼っていたが、鶏を殺して食べることは絶対にしなかった。 趣味として日本画を描いていたが、日中は殆ど土蔵の中のアトリエで絵筆を握っていた。 96歳…

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読書からのきっかけ☆

私の父は幼い頃、父親が戦死し… その後、父親の弟と母親は再婚なさりました。 義理の兄弟姉妹が産まれ、義父は自分の子供を可愛がり、前父親の子供は…な…環境で育ちました。 そんな事を知らない私は… 自分がやりたいことをやり、気に入らない事があると暴れる『暴君』だと感じており、関わるのも苦手でした… 小学生の頃、本を読んでいる時、父がニコニコしながらやって来ました。 『今日…

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父と先生

父は息子を2人、娘を2人、いずれも1才に満たぬ内に亡くしていました。👶👶👶👶 だからでしょうか、最後に生まれた私を、とにかく無事に育て様と一生懸命だったと思いますよ。👩 小学校1年の時の父兄同伴の遠足は、父が付き添ってくれました。🎒🍙 皆はお母さんなのに、私だけ・・・😅 転校した中学2年の時の授業参観は父が来ましたが、やっぱり周りはお母さんばっかりです。🏫😖 よりによって担…

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4歳まで歩けなかった父

父は、大正13年生まれ、次男坊。父の父、私にとって祖父は、明治29年生まれ。祖父の時代は、恋愛結婚は、ほとんど無かった。祖父は、恋愛結婚。年上。それもひとり娘。次男を養子にして、あとを継ぐことが、結婚の条件であったらしい。望まれて養子にいったはずなのに、今で言うネグレクト。それで、父は、4歳になっても歩けなかった。父方の祖父母、私にとっての曽祖父母が、引き取って父を育てた。実母は、小学校一年生の…

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父のエピソードは数え切れない  (1)

父は1900年生まれ。 わたしは父が35歳のときの子であった。 満州を日本国が借りていたのは 日露戦争で勝った時から 1945年第二次世界大戦で敗戦し満州国は終わりを告げ蒋介石の時代から毛沢東の時代へ。 その時代の父のとった数々のエピソードを記したい。 思い起こせば奇跡であった。 一年後引揚げが始まる。

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親爺との思い出

幼少期、父はいつも仕事帰りにキャラメルを買ってきてくれていた。 それを高いところに持ち、私はそのキャラメルに向かって跳ねる。それが楽しみだった。 その習慣がパタリと止み、いつのころからか親父はいつもしかめっ面になり、毎日のように子供に向かって怒りを爆発させるようになった。 怒らない日は無かったと言うていい。 しかしなぜか「正月は怒らん」と、宣言。 正月だけは普通にしており、手作…

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オヤジは医者ぎらい!

医者ぎらいはよくないのではと家族は思っていた。 しかしそれがいいのかも知れない。 医者にかからずに死にゆくのが幸せとも思える精神科医、和田氏のアイディアにはリクツがとおっていて、なるほどと思えるからだ。 >70代、80代 健診でがんが見つかっても治療しない選択肢もある 和田秀樹氏 >70代や80代は、(がんの早期発見、早期治療の)そこまで積極的な治療をしなくてもいいケースが多い…

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プロ野球観戦

幾つだったろうか はっきり覚えていない 田舎から常磐線に乗り 後楽園球場に兄貴と3人で出かけたが まだ、蒸気機関車の頃だった 窓から入って来る煤に目が痛かった 松戸付近で列車が止まって 不安だったが 何とか後楽園球場に着いた 野球はまだ1リーグだったので 東西対抗戦だった センター付近の外野席だった 打撃練習で打てなかった 青田選手に軽いヤジが飛…

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無欲の人

たとえば、トランプの七並べをすると、大抵の人は、前のめりになります。父は、そうなりません。ひとり、後ろに残っていました。 出世して、ちょっとでも多くの収入を得ようとするのが普通ですが、父はそうなりません。最後までヒラでいるのを望みました。 年功序列の時代でしたので、やむなく係長になりましたが。 生涯、怒った事はありません。私は、やんちゃな子どもでしたが、怒られたり、叱られたことは、一度もあ…