リタイヤ生活・26・父との思いで
私は、戦後生まれだが父親は明治生まれ.。 私は4人兄弟の末っ子だから、長男とは20歳も 離れていた。 長男、長女、次女、次男の兄・姉・姉・弟 構成であった。 長男、長女は「鬼籍」に入ってるが、3歳 違いの姉は「養老院」にはいっている。 父親は、私が中学生2年の時死亡した。 授業中に担任の先生から、「お父さんが亡く なられたようだから、帰宅しなさい」といわれた。 家に到着、座敷に布団が…
私は、戦後生まれだが父親は明治生まれ.。 私は4人兄弟の末っ子だから、長男とは20歳も 離れていた。 長男、長女、次女、次男の兄・姉・姉・弟 構成であった。 長男、長女は「鬼籍」に入ってるが、3歳 違いの姉は「養老院」にはいっている。 父親は、私が中学生2年の時死亡した。 授業中に担任の先生から、「お父さんが亡く なられたようだから、帰宅しなさい」といわれた。 家に到着、座敷に布団が…
父は48歳で他界したが、私が7人きょうだいの長男であったので、父との交流は私が最も深かった。弟妹は小さかったので父の思い出は残っていないだろう。子だくさんで貧乏な家庭だったので、晴天の休日には1キロほど歩いて、川魚を捕りに行ったり、鳥打ちに行ったりしてしてタンパク質の補いをしていたが、いつも私がお供することになっていた。川魚は投網か四つ手網で、投網はかかった小魚を網から外す役で、四つ手網の時は上…
2007年、川崎の某病院に入院していた父は桜の季節に93歳で亡くなった。 医師から、いつ亡くなってもおかしくありませんと告げられてから一月ほどたつ。土日毎に新潟から新幹線に乗って病院に通い、いい加減に決着をつけて欲しい、とあらぬことを思わぬでもなかった。 4月初めの土曜日、いつもの如く病院に行く。聴こえるはずの右耳に口を近づけ、おとうさん、息子がきたよ、新潟から新幹線にのって来たぞ、と…
父はシベリア帰りで、何かあるたびに いろいろなシベリア体験談を 私たちに話していました。 敵の手榴弾が自分の顎に当たったが、幸い爆発しなかったから 良かったと言って いつも私たちに 当たった顎の下の傷跡を見せます。 そのことなどを しつこく週1~2回 の頻度で聞かされて また~と思っていました。 私たちは 何度も聞いている!と言って父を怒らせたことが数回ありました。 特に私は そのほかの事で…
母は84歳かな。小学校の頃、看護師だった母は、夜勤夜勤でほぼ家にいなくて、参観日なんかも2回くらいしかきてもらえず。父は母の代わりに事あるごとに私を休みの日に会社や、たんぼ、畑、庭でバトミントンしたり、アマチュアカメラマンの撮影会、はたまた競馬まで、連れまわってくれました。又地区の運動会では私を運動会に引っ張り出したり、その中の仮装大会では大きな旗を小学校の私に持たせ出場したり、おかげで寂しい事…
遠い昔のことです 夏になると、向島の干汐に海水浴と釣りと舟遊びに家族全員で連れて行ってもらってました その中で、一番気に入り嬉しかったことは船遊びでしたね 伝馬船を借りて、櫂を漕ぐ手ほどきを受けて、自走できるようになったこどですね 今は父母共に他界してます 近いうちに自分も同居するようになりますね
「わしゃあ、死ぬときはぽっくりと逝く。誰の世話にもならん」 そんな言葉の通り、殺しても死なないような父だった。 子供のころは拳骨を喰らった記憶しかない。 そんな父が、難病に侵され、十年以上の病院生活を送ることを余儀なくされた。 とりわけ、晩年はベッドから動くことも間ままならぬ状態に。 父との思い出と言えば、彼の唯一の趣味だった釣りだろうか。 ある日、父が海釣りを誘ってきた。 私も嫌いではなか…
小学校の頃、父親とキャッチボールをやり、お風呂での反省会が日課でした。父親から、「野球を続けるなら●●高校だよ。」と一言。その高校は甲子園でも優勝経験がある県内屈指の名門校。 その一言を目標に野球を続け、何とかその高校に入学することができました。そして憧れの野球部に入部。最後の夏、エースナンバーを背負いマウンドに立った時、大歓声とプレイボールのサイレンが鳴り響く中で、父親からの一言を感慨深く思い…
目を真っ赤にして大阪から歩いて奈良まで帰ってきた。 大空襲のあった日に。 母よりそれを聞かされた時、「ああ、仙人ではないのだ」と思った。 妻が嫁姑問題で、私に詰め寄るので、父に相談した。 「そうすることで、だれが得する?」という答え。 「ああ、仙人ではないのだ」と思った。 102歳の臨終を看取った。 朝4時。音もたてず、「あ」と言った。 脈がない。息もしていない。訪問医をお願いしていた隣のお医者…