「自己中心構造」の日記一覧

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自己中心構造からくる不快感

不快感が起きたら その不快感に腰を据え じっくりと味わうなどをしてきて、 これは、お園さんの 「差支えなし ご注文なし」とも重なって 正しい方向だと考えていたのだが、 モグラたたきゲームのように 次々に起きてくる不快感に疑問符が生じてきた。 こんなにも 不快感が生じる自分って何なのか・・ そうだ‼ その疑問は正しい。 不快感を味わうことに対しても、 対処療法なのではないか と考えてい…

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「いつか仕返しをしてやろう」と恨むような人間だった

被害者とばかり思っていたのが 自分も加害者だったとわかったことが、 自分に嫌な態度を取る人のことを いつまでも気に病むという苦悩から 抜け出すきっかけだった。 一つの事をいつまでも考えている 気に病んでいる状況というのは 執着ということだ。 執着には自分にとって好ましいものと そうでないものがある。 趣味に打ち込むなどというのは 好ましい執着にあたるだろう。 いっぽう 自分に嫌な態度を…

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「なぜ?」から抜け出せたことが

ある人から嫌な態度をされて ぞのことで日常に影響が出るほど がんじがらめになっていたのだが、 法句経第3句 彼、われをののしり 彼、われをうちたたき 彼、われをうちまかし 彼、われをうばえり ということばが思い出されたとき わたしはがんじがらめから抜け出せた。 そのときのなにともいえない安らかさ 浄土か天国か・・と思われるようだった こうした状態が じつは私たちの本来の ありようなのでは…

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どんなところが無駄骨なのか

前の日記で これまで探求してきたことが 無駄骨だったと書いた。 何を探求だったのかというと、 「快適さの追求」と書いたのだが、 すこし乱暴な言い方だったので 加筆したいと思う。 快適さの追求は誰もがみな持っている 当たり前のことがらで、 それがすべて煩悩かというと そうではない。 たとえば、 暑い時にクーラーをかけて涼む場合、 暑いので涼しさという快適を求めるわけだが、 私の理屈からす…

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嫌な態度を取られがんじがらめになることからの解放

人から嫌な態度を取られたり なにか言われたりすると、 いつまでもそのことが頭から離れない。 その時の場面を思い出して、 怒りになって表れる時もあるし、 いたたまれなさや不安といったものも起きてくる。 1年も2年も前のことを ウジウジと考えていることもしょっちゅうだ。 今回もこうした がんじがらめが起きていたことに気がついた。 悶々としているなか、 以前 やっぱり、ある件で がんじがらめ…

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人の中に入ってなんぼの世界

きょうは道普請で 地区の人と久しぶりに行き会った。 仕事でぐったりと疲れている主人に替わって いつも私が参加するのだが、 普段ほとんど家族以外の人と会う事がないので 面倒くさいなあと思う反面、 楽しみな面もある。 班の人とも道普請の時ぐらいしか 話をしないので、 こんなときとばかりいろいろな人に声をかける。 その折、 40代のご主人と話をしたときのこと。 子どもさんが障害を持っていて たい…

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なぜ

たんなる出来事が 悩みや苦しみに変わる瞬間がある ということに気がついた。 嫉妬に関して ごちゃまぜになっていたことでもある。 目の前で他の人が褒められているとき、 「残念感」「悔しさ」が湧き起こるのだが、 これらがそのままで悩みになることはないのに、 私はこれらが 自分を苦しみに突き落としている元凶であると 勘違いをしていたのだ。 それらの感情は 自分が褒められたいのに そうではないこと…

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人を信じられない背景

人を信じられるようになったと 喜んでいたが間違いだった。 また、信じられなくなってしまった背景として 幼少期の家庭環境などを考えていたが、 それについても見当違いだ。 いつもの自分だましだったのだ。 人を信じられない背景として挙げられるのは、 家庭環境云々ではなく、 自我が際立っていることと思う。 目の前の人の態度が気に食わない、 気に入らないといって嫌いになる。 そういう人を嫌う気も…