こんなコピー見たことがない! 一人で全楽器を演奏する達人・超人・天才・・・どんな言葉も追いつかない。衝撃で体の震えが止まらない! カナダ出身のドラマー「Antoine Baril」 一人で全楽器を演奏して映像アップしている。僕の大好きなELPを見つけた。しかもキーボード類は、キースエマーソン本人の楽器を使っているらしい。これだけ完璧に演奏されれば、亡きキースも楽器も喜んでいるに違いな…
イエスのドラマー、アラン・ホワイトが亡くなった。僕の好きな年代のミュージシャンが次々と亡くなっていく。そういう年齢に来たのだから仕方ないが、やはり悲しい。 アラン・ホワイトの名前を知ったのは、ジョン・レノンがきっかけだった。「Instant Karma!」のドラムを叩いていたのがアランだった。当時はそんなに気にもしていなかったが、アルバム『Imagine』にも参加。さらに、ジョージ・ハリスンの…
これから待ち受ける、過酷な運命を予感していたイエスは、 深夜ゲッセマネの丘とよばれる場所で祈りを捧げた。 マタイ書によれば、 「わたしの魂は悲しみのあまり、死ぬほどである。」 そして弟子たちに待つように言い、ひれ伏して祈った。 「父よ、できることなら、この盃をわたしから 遠ざけてください。しかし、 わたしの思いではなく、み旨のままになりますように。」 ゲッセマネの夜、イエスは3度同じ言葉で祈りを…
山上の垂訓と呼ばれている、イエスがはじめて弟子たちに説いた説教について、あれこれと思いを巡らす。 これは新約聖書の中のあまりに有名な言葉であるがために、意味を真剣には考えてこなかった。ちょっと見過ごしがちだったと反省した。少し振り返ってみる。 イエスは山に登り腰を掛けた。そこへ弟子たちが集まってきた。そこでイエスは口を開いた。 「自分の貧しさを知る人は幸いである。 天の国はその人たちのもので…
昨日(2019年10月26日)、NHKで、吉永小百合の特集番組があった。その中で、興味深いことを伺った。 「自分はプロではない。アマチュアです。」 「つくったようにみせないために、その人が育ったところを歩いて回る。」 高倉健が、一緒に演じた後で「役を演じていたが、そのうち本当であるような気がしていた。終わってから、役だったんだと。」と感想を述べていた。 吉永にとって、演じているのではなく、…
前の日記で、あのブドウはすっぱくて不味いと、キツネが言い放って去るところでイソップ物語は終わる。 もしこのブドウに相当するものが人であったらどうなるのだろう。 こちらになびいてほしい異性がいて、どうしても自分になびいてくれない。しまいに相手はくだらない人間だ、取るに足らない人間だと言いふらす、あるいはあることないことを言いふらす。貶めることすらやるかもしれない。 また、相手に「正しい」ことを…
キリスト教の教えを聞くたびに、いつも思うことがある。 それは地獄に関することがらだ。 イエスの磔刑により人の原罪が精算された、つまり贖罪が成し遂げられたとする。これはイエスが神の子であることを前提にしている。信仰はこのことを信じることに他ならない。 やがてくる審判の日に、天から降りてくるイエスによって、不信のものは裁かれ、永劫の地獄の責めへ落とされる。イエスは厳格な裁判官であり、不信のものた…
聖書に「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」 という言葉が出てくる(マルコ12章)。 自分を愛するとは、どのようなことなのか。 よく考えれば明白とは言えないし、けっこう難しいことだ。 利己的になるという意味ではない。 もし利己的になることが愛することだとするなら、 隣人に対しては利他的になれということになるが、 利他的になる人は、利己的にはなれない。 つまりイエスの言葉は、自分と隣人を…
前日記で、善も悪もわからないという立場について書いたけれども、それと対照をなすのは絶対神を掲げる宗教の立場だろう。 絶対的に正しい神のような存在があることを前提とするので、自分にとってその神への信仰は、他の人においても信仰することが必要であると考える。したがって布教して他人も入信させなければならない。善を広めることにもなるから、これは正しい行動である、となる。 この絶対的に正しいものを自分は…
ルカは、使徒行伝の著者でもある。従って、パウロの生き様や思想をよく知っていたはずである。 つまり、イエスの福音を、信仰の観点から編集したのである。イエスや弟子の事績を詳しく集めて、それをイエスの復活のところに的を絞って系譜から書いた。 それも、一気呵成に書いたのではなく、ルカ教団の議論をふまえて編集したと考えられる。 マタイ福音書も同じである。マタイは、旧約の予言書の成就にこだわっていたので、そ…
キリスト教会で定めている教義のいくつかは、イエスの語ったとされる福音書の記述とは異なっている。異なるというより矛盾している。 信仰の問題を論理的に論じてよいかという意見もあるだろうが、ひとつ長年疑問に感じていることがらを取り上げる。それは終末論である。 教会の教義では、人間は死後、霊魂として存続し続けて、やがて最後の審判の時にイエスの審判を受けるとされており、そこで天国へ昇るのか地獄へ落ちる…
イエスの垂訓に、おのれを愛するように隣人を愛しなさい という言葉がある。 自分と同じように、隣人に対しても愛を持って向かい合いなさい という意味に受け取る。 これは素直な受け取り方だろう。 もう少し深く考えると、ちょっとこわい意味に響く。 あなたは自分を愛することができるのか? ほんとうに自分を愛しているだろうか? もし自分をほんとうに愛することができるならば、 隣人も愛することができる。 …