「イエス」の日記一覧

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原始キリスト教会1

イエスの刑死後、12使徒は何を感じ何を思ったか。 ペトロは、弟子たちの中で、最もイエスを心配していたと思うが、彼にして、予言どおりイエスを3度裏切る。 ユダヤ教の追求を恐れ、逃れようとするのはよく分かる。 審問の場にこっそり立ち入ったのは、イエスが心配であったからだとおもうが、ゴルゴダでのイエスの刑死を見届けず、追っ手を恐れて隠れるというのがどうも腑に落ちない。 普通なら、自責の念に駆られて、…

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霊魂不滅と日本人 (自分のためのメモ)

前日記の続きとなるが、キリスト教の救いの基本にあるのは、霊魂が死後も存続し、それは不滅の存在であるということに立脚している。不滅でなくて消滅するものであるならば、最後の審判のときに呼び出しようもないし、裁くことができない。 この審判はイエスが天から下ってきて審判者となると言われている。 ところで福音書に記述されたイエス像やイエスの言葉と、最後の審判の裁判官の役割が、自分にはどうしてもしっくり…

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イエスの叫び (自分のためのメモ)

何十年もむかし、よく集まっては話をする高校の仲間たちがいて、やがて同人誌を立ち上げることになった。 あるとき、そのひとりが聖書の中のイエスのことばについて考えを述べ、それが議論の始まりとなった。 それは、磔の場面でイエスが叫ぶ言葉、 「エリ、エリ、レマサバクタニ!」 (なぜ、私をお見捨てになったのですか?) のことをもって、イエスを非難する旨の意見を言った。 自分にもその非難は、いちぶ当たって…

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もともとここに居たとわかる (自分のためのメモ)

苦しみや苦悩から脱出をこころみて、はや何十年。気がつけば最初からそんなことがらはどうでもよかった、そもそも問題ではなかったと気がつく。 解決とはそんな形でやってくる。けっして、苦しみそのものの除去とか取り外しという形ではない。もし、苦しみが無くなりますようにと願ったことが実現したら、それは魔法のようなことだ。現実の世界にそれは起きない。 苦しみが苦しみでなく、それはプラスのことがらだと自分を…

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キリスト教に思うこと(自分のためのメモ)

ある本に、日本にキリスト教が広まらない理由についての 考察がなされていた。むかし宣教師たちが江戸時代の日本に やってきて布教活動をするが、なかなか受け入れられない。 その理由は、最後の審判についてであると説明されていて、 なるほどと感じた。 当時の日本人は、キリスト教の教えについては理解できるが、 先祖に対するキリスト教の視点はどうにも受け入れることが できなかったとある。 日本人は仏教的な思…

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ルカ伝の記述に

まずお断りしなければならないが、自分はキリスト教の信者ではない(つまり洗礼を受けたことはないし、教会に属するなどのことはない)。 しかし若い頃から常に聖書は傍らにあった。いつも座右の書であった。イエスの言葉は、ときに心に蘇り、謎をかけられ、考えることを強いてくる。 新約聖書には4つの福音書が並列に配されているが、先頭に配されることにより、マタイ伝を読むことがほとんどだった。 しかしこの頃ルカに…

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イエスの眼差し

前日記と関連したことをすこし書きたいと思う。 イエスの眼差しについてである。 聖書を読むと、思い通りに教えを理解しない弟子たちや周りの人たちに対し、イエスはときに苛立ったり叱ったりしていることが、福音書の記述から伺える。 しかし、ほんとうはイエスはどのような眼差しを向けていたのだろうか、なにを思っていたのだろうか。ずっと気になっている。 ゲッセマネという丘でイエスは弟子たちを待たせ、祈りを捧…

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人の本質を熟知していたからこそ

聖書の物語です。 イエスが十字架につけられるとき、 一番弟子だったペテロは イエスを裏切って逃げるのだが、 彼の裏切りをイエスが予言していた記事が 聖書に載っている。 このペテロの裏切りを イエスはなぜ予言できたのだろうか? キリスト教では「神だから予言できた」 とされるのだが、 私はその一言で片づけてしまうことに 疑問を抱いている。 わたしこそ一番弟子と自信満々に生きていたペテロ。 …

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心貧しきものとは・・・

聖書マタイ第5章には、イエスが説教したとされる山上の説教が記されています。心の貧しい人は、さいわいである・・・と始まる有名な説教です。 この「心の貧しい人」とはどういう意味なんだろうと、いつも不思議でした。日本語として、心が貧しいとは、どうもネガティブな内容を指すように受け取れます。イエスの冒頭の言葉がすっきりと身に入ってこないのです。 日本語への翻訳の際に、分かりにくくなったのだろうかと調…