本当かな?
今日、WOWWOWで 1959年東映京都撮影の「忠臣蔵」を鑑賞した、市川右太衛門、片岡千恵蔵、萬屋錦之助、東千代之介、大川橋蔵、月形龍之介、大友柳太朗、美空ひばり など そうそうたる出演者で懐かしく感じました。 ところで、赤穂 四十七士の討ち入りは死者は出なかったのですか? いくら、寝込みを襲ったとしても、吉良邸には、70人の護衛武士が居たそうです、全員無事に本懐を遂げたというのは、奇跡に近いことです、私はどうもまゆつばものだと思うのですが?
今日、WOWWOWで 1959年東映京都撮影の「忠臣蔵」を鑑賞した、市川右太衛門、片岡千恵蔵、萬屋錦之助、東千代之介、大川橋蔵、月形龍之介、大友柳太朗、美空ひばり など そうそうたる出演者で懐かしく感じました。 ところで、赤穂 四十七士の討ち入りは死者は出なかったのですか? いくら、寝込みを襲ったとしても、吉良邸には、70人の護衛武士が居たそうです、全員無事に本懐を遂げたというのは、奇跡に近いことです、私はどうもまゆつばものだと思うのですが?
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
史実なのか小説的脚色なのかは、確たる記録が残っていない為、誰も判らず推測の域を出ないと思います。
そのアバウトさが想像力を描きたて、繰り返し映像化されたり小説に取り上げられ、人は魅かれるのでは。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
上杉家の方で、強い武士を、部屋住みで、置いていた。 上杉家藩主は、吉良の息子。
どこにいたのか。。。吉良家の塀沿いに長屋を作って、大勢で泊まっていた。
この、長屋の出口を、赤穂浪士たちが、事前に、釘を打って、開かないようにした。
さらに、上杉家江戸家老、千坂兵部が、迎撃命令を出さなかった。 命令がないと、勝手に迎撃はできないんです。
泥棒や強盗なら、勝手に退治できるけど、
大石は、突入する前に、陣太鼓を打って、大声で「宣戦布告」した。 こうなると、国家老の命令が無いと、上杉家の武士たちは、戦えない。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
けが人は出たようですが死人は出たとはどの映画書物でも書かれていません。
全員クサリ帷子を着用し頭には鉄兜をつけて懐には熱した石を入れ冬の寒さから指を守っていたと言います。
一方寝込みを襲われた吉良側は寝巻き一枚で寒さの中殆ど抵抗出来なかったと言います。
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昭和55年当時のお笑いブームのことについてご存じの方、 当時のお笑い公開番組の観覧に行ったことのある方など、 是非、教えて下さい。
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10年以上?前だったと思いますが、BS2でカントリー歌手ロレッタ・リンがモデルになった映画が放送されたので途中から見ました。 あらすじは炭坑夫の娘に生まれ炭坑夫と結婚し、歌手として成長していく内容だったと思います。 どなたか映画の題名を教えていただけないでしょうか。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
(お釣り。。。返してないんです、いろんなドラマや映画を見るたびに気になってます)
伝奏邸の畳は、映画やドラマによって、枚数がまちまちで、100枚?とか、500枚? まだ新しく、表を裏返して縫い付けるだけなので、徹夜なら、100枚の場合は、職人さん、10人で間に合うんです。500枚なら、畳屋さん、50人。 畳屋さんの人数も気になります。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
そもそも何に腹立てたのかもわかっていないとか言うしね。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
史実としての赤穂浪士討ち入り事件は、かなり研究が進んでいますよ。
もちろん江戸時代から。
記録もかなり詳細なものが残ってます。
ただ、確かに江戸時代から仮名手本忠臣蔵を始め、エンターテイメントとしてさまざまな脚色された物語が流布しましたから、そちらで知識を得ている人の方が圧倒的に多いんでしょうが・・・
付帯物語としての「お軽勘平」の物語や、その他周辺事情は、脚色の方が強いみたいですけど (^_^;)
いずれにしても、こうした付帯物語までたくさん作られて、今も進行中というのが面白い題材ですよね。
史実として、討ち入り側には死者は出なかったみたいですね。
打ち入ったときに最初にしたことは、屋敷をぐるっと囲んだ長屋門・長屋塀など、警護の者たちが詰めていた部屋の扉の釘づけだったと聞いたことがあります。
それを突破して、寝巻姿のまま飛び出してきた者たちを、各個撃破したんでしょうね。
ペンネーム:回答者 (匿名希望)さん
(公務員なので、上司の命令がないと、動けない)
あの当時は、主君のあだ討ちして切腹を賜るは、最高に名誉な家臣で、義士とよばれ、たたえられました。
将軍家に無許可で討ち入りしたので、その後のご沙汰を待っていたようです。 寺坂さんは足軽だったので、身分が低くて切腹は駄目で、生き延びました。
綱吉公は、義士たちに、死刑ではなく、名誉の家臣として、忠義の武士の手本として、殉死させたらしいです。2年後に、浅野大学様を藩主にして、浅野家再興を許しました。