山形県酒田市の本間家について
酒田市の本間家は、江戸時代、日本一の大地主として知られています。本間宗久は酒田の米を売り本間家の勃興を側面から支え、その活躍ぶりは、『酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る。』『本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に』といった唄が流行るほどでした。
これは株式を扱うものにとってはよく知られた話です。しかし酒田の本間美術館を訪ねると本間宗久に関する記述は殆ど見られず、本間といえば宗久と考えていた者には極めて違和感を感じるものでした。
系譜を見ると宗久は二代目の弟、酒田市では3代目の光丘が本間家を代表する人物に上げられています。
東京と酒田市での認識の違いは何が原因なのでしょうか?
また実際、本間家の財政に、より貢献したのは宗久なのでしょうか、それとも光丘なのでしょうか?
ペンネーム:質問者 (匿名希望)さん
宗久は本流ではない。そのことが地元での評価に影響しているのかもしれません。また光丘は宗久と折り合いが悪く、宗久の稼いだ資産を公共のために寄付してしまったという話しもあるようです。
かたや、東京では地元のローカルなことより、投資の世界では、本間と言えば、内外で通用する酒田5法の宗久のことが語られるということなのでしょうか。
現在酒田美術館のひな人形について、鶴岡市の風間家が以前貸したものであるとして返却を求め、本間家は買い取ったものだとして争いになっています。