人の命に軽重がないとすれば(善意の募金活動に思う)
皆さんは時々、「〇〇ちゃんを救おう」という呼び掛けをご覧になったことがありませんか。
日本では心臓移植ができないのでアメリカに渡って手術を受けなければならず、その費用がとても多額(1億円以上)掛かるため、募金を募っているのです。
この募金運動に新聞・テレビ等のマスコミが協力すると意外に早く募金が集まることも多いようです。
こうして善意のお金で一人の命が助かるのなら、自分も率先して募金に応じ、募金の目標額が達成されれば喜び感動すべきでしょうが、いつも心の奥にもやもやした未消化なものを抱えています。
と云うのも、日本では国保が払えず無保険の人も少なからず居て、医師に診てもらうこともなく亡くなるとか、仮に診て貰ってもぎりぎりの状態で掛かるため手遅れのことも多いと聞きます。
また国外に目を転じれば、発展途上国では乳幼児の死亡率も高く、予防注射さえしていれば助かる命も数知れません。
仮に千円あれば助かる命なら1億円では10万人が助かり、1万円で助かる命なら1億円では1万人の命を救うことが出来ます。
人の命にも軽重がないのならば、1人に1億円使うよりも、1万人や10万人に1億円使う方が(ぎりぎりどん詰まりの所で)正義に適うのではないでしょうか。
勿論、募金する人や募金活動を行う側としては、自分の出したお金が不特定多数のはっきりと目に見えない処に使われるよりも、個別・具体化した対象に使われる方が遥かに気持ち的に達成感があるのは分かります。
こういったこと考え出すといつももやもやした気持ちになってしまいます。
ペンネーム:イノリさん
確かに小さな正義が集まって大きな悪となることもあるからです。
ユニセフは途上国のワクチン接種と云う分野で命を救おうとしているのであって、教育とか社会基盤整備等については、また別の方法で支援、援助していかねばならないは言うまでもありません。
もっとも、そうだからと云って、ユニセフの活動が無意味であるとは決していえないでしょう。
それでなくても限られたお金であれば、何に優先して使われるべきかを常に考えて行うべきで、目の前の事をだけ見て、如何にも良いことをしたと自己満足に浸る前により深く考える事が大事ですね。
ペンネーム:ユニセフさん
わずかなワクチンも射てないような貧しい発展途上国では、救われた子供達の多くが、女の子は「性奴隷」として売られたり、男の子は「ゲリラ」という職を得る為に銃をもってしまうこと多々あると聞き及びます。
助けた命の行く末にまで「責任」が持てないのに・・・・
「1万人や10万人を救う方が正義に適う・・・・・」と思ってしまって良いものなのでしょうか?
それは
「自分は1人を救うより、1万人や10万人を助ける方に加担している」という「自己満足」に浸っているとは言えないのでしょうか?
ペンネーム:イノリさん
貧しさ故に、色んな試練が彼らを襲うと思いますが、だからと言って助けなくて良いとは断じて思いません。
先進国の子ども一人の命も発展途上国の子どもの命も、皆、大切な命です。