続・日本橋より百里の一里塚 IN 松島町高城

江戸時代に、大阪城を亡ぼすにあたり、京都・三条大橋まで中山道、東海道を経て街道を整備した事に由来する。
識字率も低かった当時、字が読めなくとも、誰でも京に行く道が解るようにと一里ごとに道の両側に塚を築いたのです。雨が降ろうが雪が降ろうが、旅人が急に用を足す隠れ場所であったかもしれない。

参勤交代は、江戸より93里を7泊8日で仙台だった。
隔年ごとだから、1年間は江戸屋敷で各藩主が過ごした。
藩主の正室・本妻は江戸市中の各中屋敷に住まいを与えられたから、政宗の正室・愛姫は亡くなるまで、一度も仙台で過ごす事がかなわなかった。その1年間、政宗はじめ全国の藩主