「晴天を衝け」

尾高惇忠は渋沢栄一の論語の師でもあり、家業の藍玉を仕入れ売り歩く仲間でもあった。ある時、藍玉を仕入れの為下仁田から佐久に通じる内山峠を下ると渓谷をなす千曲川の源流の内山峡で漢詩を読み『巡信紀詩』の中の「・・・晴天を衝け、白雲をも穿つ気持で突き進む・・・・」とあり、ここには、その詩碑も存在する。

ここから「晴天を衝け」の題名になったのであろう雅号青淵を名乗り数々の漢詩を残し、欧州使節団で現地から14歳で栄一に嫁いだ千代に手紙を送っている。「相わかれ候よりは婦人ぐるい等も致さず全く国の事のみ心配いたしおり申し候」「たとえ10年20年とも想がわりなき赤心ただ