連載:『日本人とは何か』を考える

「信教の自由」と「盲目の尊敬」

「信教」とは「私」を「主語」とした「一人称」で、
 私は何を「信」じるのか?
 私はどんな「教」えに共鳴するのか?
この意識の主体性から切り離された教育的指導は、
全て統治機能に働くき、
「盲目の尊敬」となる可能性を秘めていると思った方がよい。

森鴎外は『寒山拾得』の作品中で「盲目の尊敬」を取り上げている。
受身だけの怠惰な意識のままでは、
何も見つけ出せない事を指摘していた。

世の中はサプリメントのコマーシャルの洪水で、
サプリメントのコマーシャルの渦に飲まれてしまうと、
食べ物とは思えないサプリメントだけで満足してしまう