さんが書いた連載宗教の日記一覧

会員以外にも公開

棺を蓋いて事定まる

その人の棺桶の蓋をしめるときに、その人物の評価が定まるとの意だ。生きている内に軽々と人を評価するなという意味にも取れる。 ある知り合いの死に向き合って、その言葉が思い浮かんだ。詳細は述べないが、生前、人前でに語っていたことや行っていたことが、じつは私生活では正反対であることが遺族とのやりとりで明らかとなってしまった。その何とも言えない不快さ、疲労感は、いまだ心に残る。日本には、晩節を汚すという…

会員以外にも公開

歎異抄を学ぶ(1)

南信の山間の小さな集落にある介護施設の広間で、ほそぼそと続けられてきた「生と死を考える会」。おもに宗教に関係した教えを学んだり、死の問題などを調べ語り合うという趣旨の会であるが、今年7月にこの会の主催者であり代表者であったH先生が急逝された。 8月の集まりは先生を偲ぶ話し合いとなったが、また今後の会の運営について話し合いを持った。その結果、代表者は自分(OASIM)が引き継ぎ、今後も活動を継続…

会員以外にも公開

池田晶子さんの言葉をめぐって

若くして亡くなった哲学者池田晶子さんの言葉を、折にふれて紐解く。思考するということの力強さを、いつも感じさせてくれて思いを新たにする。また真実にも。 今日はこのような言葉を味わった。 「そもそも私たちは、自分の決断で生まれたわけではなく、自分の決断で死ぬのでもない。生まれて死ぬという、人生のこの根本的な事態において、私たちの意志は全然関与していない。気がついたら、どういうわけだか、こういう事態…

会員以外にも公開

こだわる僧侶と和尚さんの答え

中国唐の時代に、趙州禅師という有名な方がいました。 この方は、57歳のとき師が亡くなるまで師に仕え、3年喪に服した後、さらに学ぼうと全国を旅して行脚を続け、80歳になって初めて小さなお寺に住したという遅咲きの和尚さんです。 120歳までの40年間を教化に努められた。その言動録が、 趙州録として残っています。けっして易しいものではありませんが、趙州和尚の日頃の気持ちというか、息遣いを感じることの…