「いのち」の日記一覧

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自分にとって超越者とは

救いという事を考えたとき、 超越者の存在、また、 それへの帰依が欠かせないのだが、 超越者とはなにか ということが問題だ。 キリスト教徒のときには、 自分と相対する対象としての神を想定していた。 ''髭もじゃのおじいさん''まではいかなくても 人に似た人格神なのである。 自分と神との間には深い隔たりがあって、 罪人である人間が神の処へ行くには なだめの供え物やメ…

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鬱々はどこかへ去って明るく溌溂とした自分がいた

人間関係を大事にしているので 定年後もどんどんと世界を広げる夫 それに引き換え 家族以外の他人様とほとんど交友のない自分 時折 夫が羨ましく 妬ましい気持ちも起きてくる。 今朝もそうした思いが湧いてきた。 しかし、 いつもと違うことが起きた。 羨ましいなあ と思った直後 これが自分に与えられた境遇ではないか という思いが湧いてきたのだ。 同時に 周囲を見渡すと なんと多くの…

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夜も更けたから就寝です

べットで見落とした ドラマを見ていた 集中力がないまま、 それでもなんとか 見終わってタブレットを OF、電気を消し、 扇風機のタイマーして 明かりを真っ暗にした 窓からうっすら見える 空を眺めながら眠りに 入るのが私の日課、、 最高の至福の時間だ 外から微かに室外機の モーター音が聴こえる それいがいは静寂な夜だ 心が落ち着く、、 スマホの電源を落としたら すぐに眠りについてしまう 明朝、爽や…

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南嶺さんの本から

以前youtubeで 臨済宗僧侶の横田南嶺さんの 「般若心教」の動画を観たのだが、 無常から物事を見たなら 悩みなどなくなるでしょうと説かれていた。 ニコニコとしていて ものすごくへりくだった方だったので、 法話の動画をよく聴いていて、 いのちの根底の自覚(西谷さんの言葉を拝借) に至って安寧を得た方なのだろうと 考えていたのだが、 無常の話を聞いて そうではないのかもしれないな と考えな…

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岩脈に行きついたよう

差し支えなし、注文なし や 南無阿弥陀仏 と称えているのだが、 さきほどふとこう思った。 なにか・・岩脈のようなものが見えた気がする と。 わたしの底に脈々と流れる 南無阿弥陀仏という共通の地盤である岩脈 へんな言い回しになってしまったが、 こう表現するしかない。 もし説明をするとすると、 以前に師匠から教えられたことから 推察できる。 いのちの源は 自我の殻が崩れたところに顕現…

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世界アースデー

今日4月22日は世界アースデーです。 地球のことを考えましょう。 戦争は地球を破壊しています。 敵味方ではなく、即やめることを!! 聖書の創世記を読むと、地球がどうやってつくられたか書かれています。 一つひとつが神様の愛とことばによってつくられました。 地球は神様のものです。 人間に託されて今の結果を生みました。 悔い改めて神の愛に還って忠実に。 元々人類がしてきた地球にやさし…

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「いのちが自分となって生きている」について

「いのちが自分となって生きている」 ということが知識としてわかっているけど、 身に染み入ってはいないということに気がついて、 どうすれば身に染み入ることが出来るのか とずっと考えていた。 先日から 西谷啓治さんという方の本を読んでいる。 哲学者ならではの難解さと字の小ささで 読むのに苦労したのだが、 (目で追うだけでなく音読もしたり) きのう読んだ箇所に 「いのちが自分となって生きている…

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愛情飢餓は事実からかけ離れた感覚

宗教的な体得が 愛情飢餓の問題に対する解決なのだと なんとなく体験的に感じてはいたのだが、 どういうことなのかきちんと説明できずにいた。 さきほど 夕方のウオーキングをしていたとき あ、そうか・・ と腑に落ちた。 それはこういうことだ。 生きるために心臓を動かし血を巡らし、 日光や空気や水や食べ物が無条件に与えられている。 なんと有り難いのだろうと思えるかどうか・・ 当たり前だと見向き…

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阿弥陀の声は世界いっぱいに満ちている

コメントをくださった方の言葉に 「阿弥陀の声」というのがあった。 その方は聴聞に次ぐ聴聞の先に 聞こえてくるのだと言われていて、 まだ聞こえたことがないとのことだ。 私もこのことを考えてみた。 私にはその声が聞こえていると思った。 血管の脈動から始まって心臓の鼓動、 呼吸、内臓の働き、消化活動 免疫機能、ホメオスタシー 目が見えること、耳が聞こえること、 手足が動くことetc. これら…

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生きる意味

以前に 「悟りの後半部」という日記を書いた。 長いけど載せてみる。 【死ぬのに人生に意味があるのかという人がいる。 自分も死ぬことに気がついて、 少しだけど考えたりした。 生きることに意味はあるのか という答えとして、 自分はいままで それは神だけがわかることで 被造物である私たちにはわからないもの 考えなくてもいい事 という風に捉えていたが、 そうではないということに気がついた。 で…

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相手が傷つけば自分も傷つく

いのち(阿弥陀)が自分となって生きている いのちが目の前の人となって生きている いのちが木となって生きている いのちが猫となって生きている この世の中に存在している個別のものは いのちが顕現したものだ。 もともと一つのいのちなのだから こう言うことができるはずだ。 人が傷つけば自分も傷つき、 人が喜べば自分も喜ぶ。 どんなに小さな生き物でも殺されれば痛みを感じる。 その殺された命…

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死の解決は「いのちが自分となって生きている」というところにある

死の問題の解決について自分はこう考える。 それは ''いのちが自分となって生きている'' と気づくところにある と。 ''いのちが自分となって生きている'' ・・・一見常識で考えると そんな馬鹿な・・と思われることだろう。 しかし、 自分の存在のありようからすると こうとしかいいようがないのだ。 大峯顕さんや哲学者の池田晶子さんなども 同じように考えていると拝察している。 「…

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死は一つの形態

この世界は 働き通しのいのちが満ち満ちている。 いのちが世界となっているといっていい。 いのちは生きている 永遠に生きている すべてはいのちの現れである。 生と死について考えてみる。 私たちは生と死という 二分した事柄に分けて考えるのだけど、 そうではない。 生といっているところにも死がある。 徐々に死んでいたり 死と生が交互に重なっていたり その時々で配分が異なったり さまざまな形態…

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闘病日記(3)

いのちへの随想 あるとき いのちの息吹が 蒼い海にそっと息を吹きかける いのちの息は、海の中で 小さな泡になる どこで生まれるのか どのような大きさになるのかは 泡にはわからない ただ 周りの海水との境が自分だと思っている しかし海があるから泡がある 海は泡を支えている 泡の中だけが自分ではない 泡はいつか海面に浮かび上がって 漂ったのちに破裂してしまう 海との関わりを解かれて いのちの…