恥をさらし、痛苦に耐えて生きる覚悟 芭蕉の「かるみ」(4)
(4) 芭蕉が最後に残した3句 数ならぬ身とな思いそ 魂まつり 芭蕉は最後の途中、京都嵯峨の落柿舎で寿貞の訃報を聞いた。ここで芭蕉は寿貞が自分に引け目を持ち不幸に生きていたのを嘆き「数ならぬ身とな思ひそ魂まつり」と詠んだ。後悔をするなら、なぜ、俳諧の道を多少は犠牲にしてでも、彼女をもっとかまってやれなかったのか。それが出来てたら芭蕉はもっともっと「人生の達人」だった…
(4) 芭蕉が最後に残した3句 数ならぬ身とな思いそ 魂まつり 芭蕉は最後の途中、京都嵯峨の落柿舎で寿貞の訃報を聞いた。ここで芭蕉は寿貞が自分に引け目を持ち不幸に生きていたのを嘆き「数ならぬ身とな思ひそ魂まつり」と詠んだ。後悔をするなら、なぜ、俳諧の道を多少は犠牲にしてでも、彼女をもっとかまってやれなかったのか。それが出来てたら芭蕉はもっともっと「人生の達人」だった…
(3) 「奥の細道」の前の旅、そして、あとの旅 江戸時代の旅は現在ほど安全ではない。「生類憐れみの令」で多少は旅人の安全が保障されたが、旅の途中で亡くなり「野ざらし(行き倒れ)」になる覚悟も必要である。 野ざらしを心に風のしむ身かな 1684年8月から翌年4月にかけて、芭蕉は門人の千里(ちり)とともに故郷の伊賀上野への旅をした。その紀行文の冒頭にこ…
(2) 蕉風俳諧の確立 芭蕉は1686年 43歳で「古池や 蛙飛こむ水の音」と詠んで蕉風俳諧を確立した。この句が何故そんなに素晴らしくて、外国にまで有名なのか私には良く理解出来なかった。「これの素晴らしさが分からない人には俳句は無理ですね」と云われ、分からない人も分かったような顔をしている。 今はやっと分かったから、その意義を簡単に説明しておこう。この句はそれまでの和歌の教養を…
芭蕉の「かるみ」 ~「わび・さび」を越えて~ (1) 「かるみ」とは 芭蕉は生まれた時からの天才ではない。芭蕉が「本当の芭蕉」になったのは「人生50年の時代」自分の人生に見切りを付けた40歳頃からである。1684年 41歳で旅の途中で死ぬことも覚悟して「野ざらし紀行」の旅に出て、43歳で「古池や蛙飛び込む水の音」をして蕉風俳諧を確立し「わび・さび」の境地を求めた。「奥の細道」を…