高橋克彦 の 「炎立つ 四 冥き稲妻」

治暦3年(1067年)、結有は清丸を伴い清原武貞(武則の嫡子)の妻となっており、家貞(後の家衡)も生まれ衣川に住んでいる。前九年の後、源頼義は陸奥守を解任され伊予守となって島流し(伊予⇒筑紫宗像)の宗任らの監視役ともなっている。(あべ姓は福岡県、大分県に多いがいろんな伝承もありそう)。

16年後の英保3年(1083年)、62歳の清原貞衡(武貞)は胆沢の館で突然発熱し没した(本書では貞衡の死は真衡による毒殺としている)。35歳の嫡男の真衡が後継とされていたが、真衡には実子がおらず、弟の家衡20歳と養子の清衡28歳しかいない。家衡には出羽3郡、