「父との思い出」の日記一覧

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読書からのきっかけ☆

私の父は幼い頃、父親が戦死し… その後、父親の弟と母親は再婚なさりました。 義理の兄弟姉妹が産まれ、義父は自分の子供を可愛がり、前父親の子供は…な…環境で育ちました。 そんな事を知らない私は… 自分がやりたいことをやり、気に入らない事があると暴れる『暴君』だと感じており、関わるのも苦手でした… 小学生の頃、本を読んでいる時、父がニコニコしながらやって来ました。 『今日…

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父と先生

父は息子を2人、娘を2人、いずれも1才に満たぬ内に亡くしていました。👶👶👶👶 だからでしょうか、最後に生まれた私を、とにかく無事に育て様と一生懸命だったと思いますよ。👩 小学校1年の時の父兄同伴の遠足は、父が付き添ってくれました。🎒🍙 皆はお母さんなのに、私だけ・・・😅 転校した中学2年の時の授業参観は父が来ましたが、やっぱり周りはお母さんばっかりです。🏫😖 よりによって担…

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4歳まで歩けなかった父

父は、大正13年生まれ、次男坊。父の父、私にとって祖父は、明治29年生まれ。祖父の時代は、恋愛結婚は、ほとんど無かった。祖父は、恋愛結婚。年上。それもひとり娘。次男を養子にして、あとを継ぐことが、結婚の条件であったらしい。望まれて養子にいったはずなのに、今で言うネグレクト。それで、父は、4歳になっても歩けなかった。父方の祖父母、私にとっての曽祖父母が、引き取って父を育てた。実母は、小学校一年生の…

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父のエピソードは数え切れない  (1)

父は1900年生まれ。 わたしは父が35歳のときの子であった。 満州を日本国が借りていたのは 日露戦争で勝った時から 1945年第二次世界大戦で敗戦し満州国は終わりを告げ蒋介石の時代から毛沢東の時代へ。 その時代の父のとった数々のエピソードを記したい。 思い起こせば奇跡であった。 一年後引揚げが始まる。

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親爺との思い出

幼少期、父はいつも仕事帰りにキャラメルを買ってきてくれていた。 それを高いところに持ち、私はそのキャラメルに向かって跳ねる。それが楽しみだった。 その習慣がパタリと止み、いつのころからか親父はいつもしかめっ面になり、毎日のように子供に向かって怒りを爆発させるようになった。 怒らない日は無かったと言うていい。 しかしなぜか「正月は怒らん」と、宣言。 正月だけは普通にしており、手作…

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オヤジは医者ぎらい!

医者ぎらいはよくないのではと家族は思っていた。 しかしそれがいいのかも知れない。 医者にかからずに死にゆくのが幸せとも思える精神科医、和田氏のアイディアにはリクツがとおっていて、なるほどと思えるからだ。 >70代、80代 健診でがんが見つかっても治療しない選択肢もある 和田秀樹氏 >70代や80代は、(がんの早期発見、早期治療の)そこまで積極的な治療をしなくてもいいケースが多い…

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プロ野球観戦

幾つだったろうか はっきり覚えていない 田舎から常磐線に乗り 後楽園球場に兄貴と3人で出かけたが まだ、蒸気機関車の頃だった 窓から入って来る煤に目が痛かった 松戸付近で列車が止まって 不安だったが 何とか後楽園球場に着いた 野球はまだ1リーグだったので 東西対抗戦だった センター付近の外野席だった 打撃練習で打てなかった 青田選手に軽いヤジが飛…

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無欲の人

たとえば、トランプの七並べをすると、大抵の人は、前のめりになります。父は、そうなりません。ひとり、後ろに残っていました。 出世して、ちょっとでも多くの収入を得ようとするのが普通ですが、父はそうなりません。最後までヒラでいるのを望みました。 年功序列の時代でしたので、やむなく係長になりましたが。 生涯、怒った事はありません。私は、やんちゃな子どもでしたが、怒られたり、叱られたことは、一度もあ…

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父が伝えたかった戦争

晩秋のあの日、私はゆっくりと知覧特攻平和会館へとつづく道を歩いていた。朝日を浴びて生き生きとした花壇の花を見ながら、何度訪れたのか記憶を増幅していた。この会館は、私の心の奥にそっと潜み、大半を占める亡き父の言葉を思い出す癒しの場所であった。開聞岳に向かって特攻隊が飛び立った空港のあった場所でもあり、特攻隊員が残した遺書や遺品を見て、その時の国を守る純粋な気持ちと国家暴力の異常さに気づ…

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父の言葉ひろい

癌告知 働き抜いて病む父の         ひとことひとこと こぼさずひろう 父の話す言葉は真綿で包まれるように暖かくなりました。 私は52歳当時はパソコン教室もなく独習書と通信教育を4ヶ月。父の言葉を残すためにパソコンを独学し半年目にホームページを作り発信した。

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父の刀と蓄音器

 1999年に77歳で亡くなった父の往年使った刀と蓄音器が我家に残っている。  蓄音器はゼンマイ式で蓋の裏に「日本ビクター蓄音器株式会社」「V Vブイブイ-80」「Vctrola」と書いてある。私の物心がついた時は電蓄の時代で、その後ステレオからオーディオセットへと移り変わり、蓄音器は片隅に追いやられていった。  一周忌に父の親友や同僚の皆さんにも参列いただき偲ぶ会を催した。中学の友…

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梅雨の時季の恒例のビワと杏の収穫

ビワは5月初めに小枝1本に1つと摘果したものが5.30に色がよくなったので野鳥に食べられる前に収穫しました、大きく甘くなっていました 杏は桜が咲く少し前に開花します、落ちたものを食べてみました、完熟したものは甘く種と実の分離がよくできます、 68年前、長野の実家には杏の大木が3本あり地面いっぱいにに実が落ちていました、江戸時代四国の宇和島藩のお姫様が真田藩にお嫁入した際苗木を持参して藩内…

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人間にはそれぞれ 成長過程が!

人間にはそれぞれ 成長過程があります。 学業においても 幼稚園 小学校 中学校 高校 大学 と順を追って上がっていきます。 人間の成長も 段階があるのです。 肉体を生存させる段階。 自分の生活に責任をもつ段階。 物資的な欲望を満たす段階。 自己実現を目指す段階。 自己を表現する段階。 何かを創造する段階。 真理を求める段階。 エゴを克服する段階。 …

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日本書紀を読む 142

    十一月の甲午の朔癸卯(十日)に、対馬国司が使を筑紫大宰府に遣して知らせてきた。 「月生(つきた)ちて(朔日)二日に、沙門道久(ほふしだうく)・筑紫君薩野馬(さちやま)・韓嶋勝娑婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのしのおびといは)四人が、唐より帰ってきて言うには、 『唐国(もろこし)の使人(つかひ)郭務ソウ(くわくむそう)悰等六百人、送使(おくるつかひ)沙宅孫登(さ…