ゆうべ、 「何も求めず、ただ座るだけ」 という番組を観た。 安泰寺という兵庫県の山中にある曹洞宗禅寺の 修行僧に密着するドキュメンタリーだ。 ここには 人生に疲れた人 人生の意味を求める人 など人生に行き詰った人がやって来る。 海外から来る人も多い。 入山したら3年間はとどまるという条件付きで 修行者を受け入れているのだが、 3年が終わっても継続し…
座禅やれば、無念夢想の境地が得られるもの、と漠然と考えますが、「無心」とは違うんだそうです?? 禅をたしなむお婆さんが、後継者と睨んだ若者に、座禅のため庵を建ててやりました。 20年の修行の後、青年がどの程度成果を上げたか試そうと、彼が座禅中、庵に若い美女を侵入させ、いきなり抱き付かせました。 彼は少しも騒がず、「枯木厳寒による。三冬更に暖気無し」自分は寒い岩に寄りかかった枯れ木。若い…
先の日記で、日本仏教の教えでは各宗派によって、教えの違いがあります。といった内容の日記を投稿しました。 具体的には、密教系の教えは、即心是仏即ち、現世で生きたまま仏になれるということです。 浄土系ではお亡くなりなれば、まず極楽浄土という世界に行き、そこで修行して成仏即ち、仏の境涯になれますよ。 ところが禅系の宗派では、人間の生死については、詳細に教えを説いておりません。 特に、曹洞宗では、「生…
禅僧になるには、禅師の下で禅の法式に従って得度しその弟子であるとの証明書を持ち、その上で専門道場で修行をしなければ禅僧としての資格が得られない。どこかの道場まで旅をして、専門道場に入ることを入衆という。ところが、これが一筋縄では行かない。最初は必ず断られる。当僧堂は満員で致し方ないというのが口実。それでも、新米僧は入衆を請い、門前、あるいは旦過寮という旅僧が一夜を過ごす寮の一室で座禅を組んで入…
私の足裏禅(勝手に命名)に 次のような感想をいただいた。 「雑念をなくす(ことな)のですね」 一般的な坐禅もそうだが、 禅というと 心の中を空っぽにするというイメージがある。 私もずっとそのように考えていた。 この方もおそらく 心を空っぽにするという意味で 言われたことと思う。 しかし 現実的な話として 心は空っぽになることはないというのが 真実の姿だ。 禅や森田療法などを学ぶうち 苦…
若い頃の座禅は、結跏趺坐。 足背を左右それぞれのももに乗せる座り方。 この座り方が一番安定する。 50で膝が悪くなり、半跏に変えた。 片足だけももの上に乗せる。 還暦から足首も硬くなり、 普通のあぐらにした。 お尻や足首にクッションを沢山置かないと、 安定しない。 長く座り続けるには、安定した体位が必要。 将来、座ることが難しくなれば、椅子に座るしかない。 座禅に入ると、 50くらいまで…
5年前、不整脈に気付いた。 心臓の動きが少しおかしい。 座禅で心臓の鼓動に注意を向けると、不安が襲う。 その頃、気功の本を読み、 気功のやり方を一部取り入れた。 呼吸は禅と同じだが、 気を感じるようにするのが違うだけ。 すると、下腹部が温かくなった。 冬に始め、室温が15度位ですると、 まるで、温泉に浸かっているように感じた。 今では、室温5度でも、 あたたかくなる。 そして、驚いたこと…
自分を見ている「もう一人の自分」の存在が はっきりとわかったのだが、 これこそが 盤珪禅師の''不生の仏心''であり 臨済禅師のいう''一無為の真人''なのだ。 円覚寺住職の横田南嶺さんの 「仏心のひとしずく」という本に このことについて述べられた箇所がある。 この本は仏教を学びはじめたころに購入し 長く持っている本なのだが、 これまでは「仏心がある」ということすら わからなかったので、 …
久しぶりに高田明和氏(浜松医大名誉教授)の著書を買った。 そのなかで随所に「徳を損なうことはしない」という 生き方について語られていて、これは先生の生き方の 信念なのだろうと思う。 元はブッダの教えとして紹介されているが、 徳という言葉をブッダが使っていたか定かではないが、 高田先生のなかでそのような凝縮された言葉として 結晶化しているのだろう。 徳を損なわない生き方は、具体的には、 「人の…
お気に入りさんの日記に、「嫉妬はだれが起こすのか?」という問いかけと見解が書かれていた。 仏教の教えによれば、嫉妬や瞋恚、貪りなどは煩悩とされ、みずからが起こすものとされている。 ほんらい無であるわれわれの心には、そのような煩悩はなく清浄なものであるのに、無知無明の中にいるものはそれを起こして本来の心を曇らせてしまい苦しむとブッダは説いている。 常日ごろ、心の掃除をして私心はないか、私利私欲…