さんが書いた連載人間関係・交わりの日記一覧

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元同級の友人の大きな新聞記事(1968)

 去る2月13日のこと、夕刊読売新聞の8面を開けてびっくり。  タイトルに掲げたように、元同級生の友人が大きな顔写真入りで登場していたからだった。  その紙面は「取材帳」で、「異次元の長寿3」として、元厚生次官の吉原健二君が取り上げられていたからだった。  その見出しは「年金は天職 今も現役」とある。  吉原君が厚生省に入ったのは1955年。それ以来、「年金一筋の人生」だった。「国民皆年金」の制…

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狂言師・野村万作君文化勲章受章の報に(1931)

 今年度の文化勲章受章者と文化功労者が発表された。いずれ劣らぬ、各界で顕著な功績を挙げた方たちばかりだ。まずは、そのことを慶びたい。  その中の一人に、能楽・狂言師の野村万作君が挙げられた。野村君は都立五中の同期生だ。同級になったことはなかったけれども。当時、東京は地域別に四学区に分けられ、五中は第三学区のトップ校だった。だから、各小学校の級長・委員長クラスの連中ばかりだった。当然野村君もその…

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第二次世界大戦中・戦後を超えての友情70余年―K.F.君らとの会合を機に(1868)

 これから記そうとするのは、一般論ではない。特定の友人たちとの交友を顧みてのことだ。だから、そんな知らぬ人のことなんて、とは思わないでほしい。どうして、特定のことを通して、あるいは一般性にも至り得るのかも知れないのだから。  直接的には、ここ「趣味人倶楽部」での日記との関連でいえば、去る3月24日の、wakoh自身を含めた、3人の旧友との会合の日記「92~3歳の旧友との会合(その4)」(186…

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大江健三郎さんを偲んで(1860)

 大江健三郎さんが亡くなられたのは、2023年3月3日だったらしい。それを知ったのは、3月14日の朝刊においてだった。今日はすでに18日。報道されてからも、4日以上経っている。逝去後からはすでに半月。  内外の極めて多くの方々にとって、そうであったように、wakohにとってもショックだった。  死は、いずれかは訪れる。それは避けることのできない運命ではある。だが、前人未到の、卓越した、輝かし…

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次期日銀総裁決定の報に―速水優元総裁を偲んで(1844)

        wakohは経済音痴だ。およそ金融とか、財政のことなど全く知らないも同然だ。大切、大事とは思っても、それに首を突っ込むことなど全くせずに過ごしてきた。  そんなwakohでも、日銀総裁の人事が、トップニュースになっているのは知らぬではない。10年も続いた黒田東彦総裁の下での、金融緩和政策がどうなるのか、その行方を市場は注目しているという。次期日本銀行総裁として政府が指名したの…

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90歳を過ぎてから復活した旧友との2度目の会食など(1831)

 直前の日記、「デイサービスでの経験の中から」(1830)に対するコメントの中で、お気に入りになってくださっている方のおひとり「下北沢さん」が、90歳を過ぎて、ここでの日記や大相撲観戦記などを書いているのは滅多にないことだといった趣意のことを、仰って下さった。恐縮である。それに対するwakohのREコメントの中で、これから書かんとしている日記のことに触れた。  その実際の一端を披露しようとする…

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NHK連続テレビ小説「舞いあがれ!」の航空学校編スタートを観て―wakohの友人への思い(1804)

 wakohは、今までNHK朝の連続テレビ小説のことを、一度として書いたことがないはずだ。  だが、今日急に思い立って、突然書こうかとしている。何故か。  朝のテレビドラマはずいぶん長く、NHKの評判の番組だ。 例えば、wakohの父・種基は1975年5月に83歳で死去したのだが、晩年何かの取材に答えて、愛好する番組として「おはなはん」を挙げていたことがあった。  また、世界的に有名…

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ある旧友との2人だけでの会合(1786)

 去る9月21日「70年ぶりの旧友からの通信」(1766)という日記を記した。お読みくださった方の中には、あるいは覚えていてくださる方もおられるかもしれない。  その後、その友人とは手紙や電話などで話し合ったりもしていた。そして再会をしようということになった。  何時、何処で、会うかということになると、存外難しい。何しろ2人とも91,2歳の老人だ。何処と言っても、すぐには判らない。老人なりに…

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70年ぶりの旧友からの通信(1766)

 このところ、wkohの日記は、随分変動があるようだ。もともと、wakohの日記はあるテーマについて集中的に書いているのではない。そうではなくして、その時どきの、wakohの認知・情感・思考・行為などを、思いつくままに書き散らかしているに過ぎない。だから、お読みくださる方々にとっては、この男一体どんなつもりなのだろうと、訝しく思われても仕方がない。尤も、それらは一見てんでバラバラに見えても、ある…

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「寸評」に力あり(1756)

「寸評」とは何か。手許に置いている『新明解国語辞典』によれば、「短い批評」とある。それはそうだけれども、それではあっけなさすぎると思い、『広辞苑』」(第7版)を引いてみた。やはり「短い批評」としか出ていない。それなら一応そうにしておこう。  具体的には、2022年8月29日の読売新聞夕刊に出ていた「よみうり寸評」だ。わずか二段の囲み記事だ。勘定してみた。1行14字で32行。タイトル部分を差し引…

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松本清張没後30年―『松本清張の世界』を観る(1747)

 松本清張が亡くなったのは、1992年8月4日だった。それから30年。その生誕は1909年12月21日だから、82歳8カ月だった。実は、つい先日、NHKから、その時にあたり、戦後未解決の社会的大事件としての「下山事件」や「帝銀事件」などに関する松本清張と父との関わりなどをぜひ知りたいとの取材の要請があったことは、すでに記したとおりである。そのようなことがなければ、wakoh自身は松本清張の没後3…

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父古畑種基・小酒井不木・江戸川乱歩・松本清張(1745)

 今回の突然の取材申し込みで、先方の知りたかったことの一つは、父古畑種基と作家松本清張との接点、関係であったろう。何しろ、そのディレクターは、まだ43歳。父が83歳で死去したのは47年前、下山事件が起こったのは、1949年7月だから、73年も前のことだから、もちろん彼の生まれるはるか以前のことばかりだ。したがって、文献を通し、資料を通して、下山事件のことも、父古畑種基のことも、松本清張のことも知…

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wakohの交友の回顧(その6)紫水会の友人たちの中には①(1712)

 都立五中・小石川高校の友人たちとの交流のことに触れる前に、その中学・高校の背景を取り敢えず、少しだけ取り上げてみた。(1710)の日記に於いてだった。  ところが、突然、東芝の取締役候補をめぐる、その指名委員会が割れたきニュースが飛び込んできた。それに反対したのが、姪の綿引万里子である旨を知った。そこで、そのニュースが、wakohの交友の回顧の日記に割って入ることになってしまった。  また元に…

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wakohの交友の回顧(その5)都立五中・小石川高・紫水会―その序(1710)

 wakohは昭和19年、東京第二師範付属国民学校を卒業し、都立五中に入学。その前の年までは府立五中だったが、都制が布かれるに及んで、都立五中になった次第。第二次大戦は激化し、戦況は益々不利になりつつあった。一学年上のクラスは、勤労動員に駆り出されていた。まさに激動の6年間だった。  昭和18年、東京の都立の中学校は、4学区に分けられた。都立五中は、第三学区のトップ校だった。だから各小学校の選り…

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生と死―平均寿命・健康寿命・平均余命の推移など(1709)

 漠然と生と死を思うともなく、思い浮かべているうちに、タイトルのようなことが思い浮かんできた。  wakohは、あと1週間足らずで、91歳を迎えんとしている。昨年6月9日卒寿に達した。  長い道のりだったような気もする一方、あっという間の90年間だったように感じる時もある。見方、立ち位置によって変わってくるのであろう。  不老不死は、人間誰もの願いかも知れない。そして、生物としての人間としては、…

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小塩節先生のご逝去を悼んで(1703)

 今夕、この趣味人倶楽部の日記の中で、お気に入りさんになってくださっておられるミューズさんの書かれた日記のタイトルにくぎ付けとなった。それは「小塩節先生ご逝去」と題するものだったからである。  wakohにとっては、小塩先生は、かつて同僚・友人でもあった。小塩さんの方が1年先輩ではあるけれど。  wakohの家内にとっては、かつて幼児時代には、佐世保で、少し年長のタカシちゃんであり、その妹のあつ…

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wakohの交友の回顧(その4)小学校同期同窓会「撫子の会」(1696)

 小学校時代の友人のことを、何人かについて少し語った。だが卒業したのは昭和19年(1944年)なのだから、小学校時代は6年間でも、その後は78年もある。  しかも同じクラス、赤組(1組)の友人についてしか触れなかった。前述のように6年間持ち上がりだったので、もう一つの男子組(白組)や一つしかない女子組(緑組)とは交流が少なかった。wakohの場合は女子組とは殆ど交流がなかったのだから、それは当然…

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wakohの交友の回顧(その3)小学校時代の友人の中には(1695)

 小学校時代の友人のことを取り上げようとすると、その時代背景にも触れざるを得なかった。そこで、これから、メインであるはずの友人たちのことを選択的に取り上げてみたい。豊島附属は、1学年が3組から成り、1組(赤組)と2組(白組)は男子組で、3組(緑組)は女子組で、それは6年間持ち上がりだった。男女共学ではなかったのである。一組の定員は、大凡48人ずつだった。父母は教育熱心なエリート層の人が大多数だっ…

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wakohの交友の回顧(その2)小学生時代、その背景(1694)

 wakohは幼稚園には、わずか7か月しか通わなかった。それでも、直前の日記に記した通り、3人の今に至るも忘れ得ぬ友人のことを挙げた。  小学校には6年間通った。しかも6年間持ち上がりだった。だから思い出も深いものがある。  wakohが入学したのは、東京府豊島師範学校付属小学校だった。1938年~1944年の6年間だ。1937年7月、盧溝橋事件をきっかけに、支那事変が勃発、日中戦争は泥沼に化…

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wakohの交友を顧みると(その1)幼稚園での友人の中から(1693)

 wakohの義母は、95歳で召天するまで、若くして夫を喪い、自らの母と娘(つまりwakohの家内)と3人暮らしの時期がかなりあり、戦後のこととて、生活は苦しかったであろうが、熱心なキリスト教信者であり、基本的に明るく、生き抜いた、そんな人だった。最晩年に至るまで、杖一つつかずに元気だった。  その義母は、その最晩年、何かの時に、家内に向かって、「もう誰もおらんようになってしもうた」とつくづく嘆…