今年度の文化勲章受章者と文化功労者が発表された。いずれ劣らぬ、各界で顕著な功績を挙げた方たちばかりだ。まずは、そのことを慶びたい。 その中の一人に、能楽・狂言師の野村万作君が挙げられた。野村君は都立五中の同期生だ。同級になったことはなかったけれども。当時、東京は地域別に四学区に分けられ、五中は第三学区のトップ校だった。だから、各小学校の級長・委員長クラスの連中ばかりだった。当然野村君もその…
wakohは経済音痴だ。およそ金融とか、財政のことなど全く知らないも同然だ。大切、大事とは思っても、それに首を突っ込むことなど全くせずに過ごしてきた。 そんなwakohでも、日銀総裁の人事が、トップニュースになっているのは知らぬではない。10年も続いた黒田東彦総裁の下での、金融緩和政策がどうなるのか、その行方を市場は注目しているという。次期日本銀行総裁として政府が指名したの…
wakohは、今までNHK朝の連続テレビ小説のことを、一度として書いたことがないはずだ。 だが、今日急に思い立って、突然書こうかとしている。何故か。 朝のテレビドラマはずいぶん長く、NHKの評判の番組だ。 例えば、wakohの父・種基は1975年5月に83歳で死去したのだが、晩年何かの取材に答えて、愛好する番組として「おはなはん」を挙げていたことがあった。 また、世界的に有名…
都立五中・小石川高校の友人たちとの交流のことに触れる前に、その中学・高校の背景を取り敢えず、少しだけ取り上げてみた。(1710)の日記に於いてだった。 ところが、突然、東芝の取締役候補をめぐる、その指名委員会が割れたきニュースが飛び込んできた。それに反対したのが、姪の綿引万里子である旨を知った。そこで、そのニュースが、wakohの交友の回顧の日記に割って入ることになってしまった。 また元に…
wakohは昭和19年、東京第二師範付属国民学校を卒業し、都立五中に入学。その前の年までは府立五中だったが、都制が布かれるに及んで、都立五中になった次第。第二次大戦は激化し、戦況は益々不利になりつつあった。一学年上のクラスは、勤労動員に駆り出されていた。まさに激動の6年間だった。 昭和18年、東京の都立の中学校は、4学区に分けられた。都立五中は、第三学区のトップ校だった。だから各小学校の選り…
漠然と生と死を思うともなく、思い浮かべているうちに、タイトルのようなことが思い浮かんできた。 wakohは、あと1週間足らずで、91歳を迎えんとしている。昨年6月9日卒寿に達した。 長い道のりだったような気もする一方、あっという間の90年間だったように感じる時もある。見方、立ち位置によって変わってくるのであろう。 不老不死は、人間誰もの願いかも知れない。そして、生物としての人間としては、…
小学校時代の友人のことを、何人かについて少し語った。だが卒業したのは昭和19年(1944年)なのだから、小学校時代は6年間でも、その後は78年もある。 しかも同じクラス、赤組(1組)の友人についてしか触れなかった。前述のように6年間持ち上がりだったので、もう一つの男子組(白組)や一つしかない女子組(緑組)とは交流が少なかった。wakohの場合は女子組とは殆ど交流がなかったのだから、それは当然…
小学校時代の友人のことを取り上げようとすると、その時代背景にも触れざるを得なかった。そこで、これから、メインであるはずの友人たちのことを選択的に取り上げてみたい。豊島附属は、1学年が3組から成り、1組(赤組)と2組(白組)は男子組で、3組(緑組)は女子組で、それは6年間持ち上がりだった。男女共学ではなかったのである。一組の定員は、大凡48人ずつだった。父母は教育熱心なエリート層の人が大多数だっ…
wakohは幼稚園には、わずか7か月しか通わなかった。それでも、直前の日記に記した通り、3人の今に至るも忘れ得ぬ友人のことを挙げた。 小学校には6年間通った。しかも6年間持ち上がりだった。だから思い出も深いものがある。 wakohが入学したのは、東京府豊島師範学校付属小学校だった。1938年~1944年の6年間だ。1937年7月、盧溝橋事件をきっかけに、支那事変が勃発、日中戦争は泥沼に化…
wakohの義母は、95歳で召天するまで、若くして夫を喪い、自らの母と娘(つまりwakohの家内)と3人暮らしの時期がかなりあり、戦後のこととて、生活は苦しかったであろうが、熱心なキリスト教信者であり、基本的に明るく、生き抜いた、そんな人だった。最晩年に至るまで、杖一つつかずに元気だった。 その義母は、その最晩年、何かの時に、家内に向かって、「もう誰もおらんようになってしもうた」とつくづく嘆…