さんが書いた連載わが道の日記一覧

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近頃のwakohの動静から(1914)

 直前の日記をwakohが書いたのは、大相撲秋場所を目前にした時だった。それからほぼ2週間経ってしまった。秋場所はすでに6日目を終えたところだ。  この趣味人倶楽部で、公開日記を書き出してから、11年半近くになる。その間、こんなにブランクがあったのは、滅多にないはずだ。  我ながら、一体どうしてしまったかとすら思うほどだ。もう92歳3ヵ月にもなる老残だ。男性の平均寿命からすれば、10歳以…

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『わが道』はどうなったか(1752)

 こんなタイトルをご覧になっても、一体何のことかと思われるかもしれない。wakoh自身ですら、混沌としたままだ。  だが、言わんとするのは、おおよそ次のようなことだ。  wakohにとっては、今や「趣味人倶楽部」での日記の占める割合が大きくなってきている。それは間違いのないところだ。  お気に入りさんのお一人オカナガンさんのご示唆もあり、思い切って『わが道』を書き出したのは。2020年11月19…

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『わが道』(100)卒寿を迎えて―未知との遭遇、その連続、学徒としての70年(1566)

 この「趣味人倶楽部」での「お気に入りさん」のおひとり、オカナガンさんのご示唆を契機として、『わが道』を書き出してから、何時の間にか、今日で100回目を迎えようとしている。  2008年3月に帝京大学を定年退職してから、もう13年になる。少しは家族との海外旅行などと思った矢先に、がん。しかも大腸の進行がんが発覚した時点では、些かならず驚いたのは事実だったが、研究的活動は全面的にストップしてしまっ…

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『わが道』(99)デイ・サービスでの経験の中から(1565)

 生きているということは、刻一刻未知の世界に入っていくということである。もちろん、そうは言っても、毎日同じようなことの繰り返しも多いのは当然だ。起床して、顔を洗い、朝食をとり、排便を済ませ、その日の仕事なり、活動なりに入っていく。昼食を取り、少しは休息も取り、午後の仕事に就く。その仕事は各人各様だが。充実して精一杯活動することもあろう。逆に、疲れを覚えることもあろう。家で仕事をする人もいれば、外…

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『わが道』(98)断捨離ならず―書斎・書庫・倉庫・2Kなど(1564)

 2008年に帝京大学を退職し、2009年には大腸の進行がんが発覚・手術をし、研究・教育の王道からも退くに至ったのは、人生航路では当然の成り行きだったのであろう。  研究・教育のみならず、趣味の大相撲も、クラシック音楽も、国技館で観戦したり、音楽ホールで視聴したりすることも、思い切って断念した。それも人生の最終回に差し掛かりつつあるのは歴然としているので、すっかり受容した。時あたかも、新型コロナ…

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『わが道』(97)趣味としてのクラシック音楽鑑賞(1563)

 wakohはどちらかと言えば、無趣味な方かもしれない。いろいろな趣味を楽しむような生き方ではなかった。それでも、子どもの時から、「大相撲」には夢中になってきた。気が付いたら、80余年に及ぶものになってしまっていた。  もう一つ挙げるとするならば、クラシック音楽鑑賞ということになるかもしれない。決して詳しくはないし、音楽の基礎を踏まえていない、中途半端な鑑賞ではあるのだが。  そのきっかけは、父…

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『わが道』(96)趣味としての大相撲(1562)

 たびたび言及しているように、『わが道』では、wakohはその生活の大半を、研究者として、また教育者として過ごしてきたので、「研究・教育」の側面に重点を置いて書いてきた。けれども、もちろんそれがすべてではない。そこで、多少は海外旅行・国内旅行のことにも、この際触れたのだった。それからまた、wakohの精神生活には、敢えてあまり触れてこなかったのだけれども、この際一言したばかりだ。  その一環とし…

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『わが道』(95)コロナ禍の中での教会生活(1561)

 wakohはこの「趣味人倶楽部」では、宗教とか信仰の問題には、原則としてあまり触れないようにしてきた。どうしてか。それは個人の内心、内面の問題であり、あえてオープンにすることではないからでもある。wakoh自身はクリスチャンであり、そのこと自体は時に応じ、明らかにしてきてはいる。けれども、わが国では、キリスト教徒は残念なことだが、新旧(プロテスタントとカトリック)を合わせても、1%くらいとか。…

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『わが道』(94)大腸がん手術後の外国旅行などは(1560)

 思ってもいなかった大腸がん、それも進行がんだったが、そうとなったからには、手術を受け、療養し、回復を願うばかりだった。  どれだけ効くかは分からなかったけれども、抗がん剤の服用だけは厳守した。  旅行の機会は意外に早く巡ってきた。実は、父の出身の和歌山中学(現・桐蔭高等学校)は、和中・桐蔭 創立130周年を記念して、2009年10月1日、記念式典を行うこととなった。そして、父・古畑種基(法医…

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『わが道』(93)外国旅行のことなどと大腸がんの手術・療養(1559)

 wakohは、『わが道』というとき、今まで専ら学徒としての研究・教育に焦点を絞って書いてきたようである。そして、2008年3月で、帝京大学も定年退職し、そういう側面もがくんと落ち込んでしまったのはやむを得ないかもしれない。  しかし、wakohはすべてを研究と教育にだけ費やしてきていたわけではなかった。家庭もあり、妻子もいる。全く無視していていたはずはない。ただ纏まった時間が取りにくかった。だ…

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『わが道』(92)帝京大学退職後の生活を、ざっと振り返ってみると(1556)

 wakohのそれまでの生涯は、ほぼ大学生活と共にあった。研究と教育にそれなりに邁進してきた。それ以外の世界を殆ど知ることもなく。だから、随分偏りのある生活であったろう。だが、wakoh自身は、それをすっかり受け容れていた。自分にとっては、それがごく当たり前の生活だった。別に堅苦しいとも、窮屈だとも、思わなかった。それに、幸いに健康には恵まれていた。というよりも健康であるつもりで過ごしてきた。 …

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『わが道』(91)帝京大学時代の交友の中から―三代にわたる交友とは!(1555)

 これから記さんとしていることは、実は以前一度取り上げたことのあるテーマの筈だ。だが、現在見当たらない。 そこで、思い切って再び記してみようか。重複に気づかれた方がおられたら、ご寛恕いただきたい。  直前の「最終講義」の日記の中でも、ある意味では不思議な交友に触れた。国際文化学科、久米あつみ先生とwakohとの帝京大学での交友は、それに留まることなく、家内の幼児時代のアツミちゃんとの遊び、その兄…

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『わが道』(90)⑤帝京大学心理学科における最終講義「学徒としての55年」(1554)

 当初10年間の予定で帝京大学に赴任したのだったが、諸般の事情で、結局、教育学科で9年、心理学科で7年、計16年間勤めることになってしまった。 そして、2008年(平成20年)3月末日をもって、定年退職することになった。当然いろいろな感慨が蘇っても来る。  その最終講義のことを書こうとするのだが、その前に、帝京大学にはどのようにして通っていたか、その所在、経路などのことに触れておこうか。  東…

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『わが道』(89)④インターネットにおけるコミュニケーション考―SNSミクシィにおける一事例を通して―(1553)

 前にも触れたように、wakohが帝京大学に就職したのは、東京大学を60歳で定年退職と同時に、70歳定年と辞令には明記されてであった。ところが諸般の事情で、それは延長に次ぐ延長となった。しかし、2008年3月、満76歳で定年となることが確定した。  東京大学在任中は、多忙を極めていたのだったが、帝京大学赴任後も、いろいろなことに追われていた。そのために、帝京大学の紀要に執筆することは、時間的に難…

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『わが道』(88)③『交流:既知と未知を超えて―ワコウの日記から―』(1552)

 タイトルだけをご覧になったら、一体何事かと訝しく思われるかもしれない。wakohの書いた日記の最初の1年1か月分を印刷に付したものである。B5版で、860ページからなる、ずっしりと重いものだ。もちろん、だから研究ではない。ある意味では、教育とは関係があるかもしれない。  何故か。この書物の発端は次の事情による。wakohは、帝京大学でも、教育学科でも、心理学科でも、卒業論文の指導も行ってきた。…

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『わが道』(87)帝京大学心理学科での研究と教育②広義の研究の中から(1551)

 最早狭義の実証的研究は難しくなってくるのは、致し方ない。けれども、広義の啓蒙的研究は、未だ可能でもあるし、それには携わってきた。 いくつかのことを、多少領域別にまとめておこうか。 ①社会心理学関係。  既に、教育学科での研究の中で触れてしまったけれども、『新カトリック大事典』の第3巻に執筆した「社会心理学」は、大部な事典なので刊行が遅れ、公刊されたのは心理学科に移籍してからになってしまった…

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『わが道』(86)帝京大学心理学科での研究と教育①教育の概要など(1550)

 wakohは帝京大学に就職する時、はじめは3学科、後には5学科から選択するようにとの創立者冲永莊一総長からの好意ある申し出から、教育学科を選択させていただいた経緯は既に述べたとおりだ。それなら、何故、心理学科に移籍することになったのか。  心理学科には、学科創設の頃には、東大出身の著名な方々がおられた。しかし、大抵は70歳で定年を迎えられた。その中で東大から日大の心理学科に行かれたS.T.先生…

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『わが道』(85)古稀記念に―略歴および業績目録など(2001年6月9日)(1548)

21世紀を迎えるのと前後して、wakohは古希を迎えた。勤めていた帝京大学では、教育学科から心理学科へ移籍する時でもあった。直前の日記に『わが20世紀の一齣』の中で、wakohは「学徒としての50年」を敢えて記した。 東京大学社会心理学研究室出身の諸兄姉の有志が、古希の祝賀会をして下さるという。恐縮だが、それは謹んでお受けすることにした。それとともに、wakohは内祝いとして、出身の金沢市とは切…

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『わが道』(84)『わが20世紀の一齣』からー「学徒としての50年」(1547)

wakohは「学徒」としての道を歩んできた。そのことは、この趣味人倶楽部でも、「お気に入りさん」になっていて下さる方々は、多かれ少なかれ、ご存じであろう。  この『わが道』でも、一貫して大学の事ばかりを記してきた。逆に言えば、大学以外のことは殆ど知らずに過ごしてきた。しかも、研究と教育の事ばかりを記してきた。それ以外の大学行政のことなどは殆ど知らぬままだった。  だが、如何なwakohとて、大学…

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『わが道』(83)帝京大学教育学科における研究と教育⑩総括(1545)

これまでの9篇は、いずれも「帝京大学教育学科における研究と教育」の中のサブ・タイトルだった。だが、ここで、そのまとめというか、総括の試みをしておこう。  詳しくは、したがって『わが道』の(74)~(82)をご覧いただければと願うものである。  wakohが帝京大学に専任教員として赴任したのは、1992年4月だった。尤も、今まで言わずに来たのだったが、実はその前1年間非常勤講師を務めていた。それは…