倭人伝解読の詳細に入る前に、過去の説を振り返ってみる。邦光史郎氏の『邪馬台国の旅』を参考にして整理した。 ① 『日本書紀』(720年)が「魏志曰く」と倭人伝を引く。但し、朝貢が景初3年と記さ れており、書紀の編者は景初2年と記した正統な魏志を見ていない可能性あり、と私は考えている。ともあれ書紀の景初3年が正しいとなって、倭人伝にも誤記があるとの根拠を後世に与え、倭人伝の文字や数字が軽く改訂され…
3.4三国志での長短里混在理由と陳寿の仕掛け 前回、短里の存在が証明されていること、三国志の中で長短里が混在している理由として半沢氏の「明帝の改暦」説を紹介した。さらに、この改暦説には明帝自身の言葉、「四千里彼方の征伐」の障壁があることを説明した。 この障壁とは、洛陽から遼東(遼陽)までの距離が約1400kmで短里とすると18000里となって合わない。長里から短里に制度を変えたはずの明帝自身…
3.短里問題を「陳寿の仕掛け」から解決する 邪馬台国論争で今の最大の課題は、いわゆる短里問題で倭人伝を短里で解釈してよいのかどうかである。倭人伝の里程は短里で記されていると思っているのだが、短里を学会が公認していない。短里であれば、邪馬壹国は九州で決まる。 学会以外は短里の存在を認める論者が多く私も短里の存在を確信し、その証拠を三国志 の中で見つけて証明しようと四苦八苦していた。しかし、よく考…
2.2曹爽の作戦 前回の経緯表のなかで景初2年が243年となっていた。238年が正しいので、訂正しました。 さて、前回の卑弥呼朝貢前後の経緯の中で見つけた「何かおかしいこと」を考えていくと、曹爽と司馬懿の権力争いの物語が見えてくる。 魏を滅ぼした西晋の立役者、司馬懿は有名だが曹爽はあまり知られていないだろう。曹爽は王族で明帝の信任厚く、当時の権力者であった司馬懿を追い落とそうとしていた。この…
2.卑弥呼と謎の四世紀 中国の歴史書から日本の記事がすっぽりと抜ける時代があり「謎の四世紀」といわれている。それは『晋書』の266年の倭国朝貢記事を最後に同書の413年の朝貢記事まで150年もの間、つまり四世紀の記事が全く記されていない。これはなぜ?という答えが全くわかっていないので「謎」とされている。今回は、卑弥呼と魏の関係について考え、「謎の四世紀」の原因に迫っていくことにする。 卑弥呼…
コロナによる外出自粛中で三国志の訳本、筑摩書房の「正史三国志」を読み直しているが、面白い。それは、今まで自分の中で構築していた魏志倭人伝や陳寿のイメージが変わってきたからである。邪馬台国論争で争われている「謎」は倭人伝のみならず三国志本伝の中にも、それを解く鍵が記されていることが改めてわかってきた。倭人伝が「おとぎ話で信じられない」という説も多い。しかしながら、そうではないことが本伝からも読みと…