さんが書いた連載倭人伝の真実に迫るの日記一覧

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15. 卑弥呼の鏡(超大型鏡)を考える

今回は、少し道筋から離れて卑弥呼の鏡について考える。伊都国に平原遺跡があり、ここから出土した5面の超大型鏡の文様、「九重の同心円」が魏からの下賜品である証左だと考えている。ところが、この文様やサイズ、鋳型に流す銅の注入方向が中国鏡に類例がない、鋳造技術が低い、ということで国産鏡という意見が強いようである。しかし、中国に類例がない文様、「九重の同心円」と「鈕座花文8葉」、中国鏡の2倍もあるサイズこ…

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14. 一大国から末盧、伊都国へ

ついに壱岐の一大国から九州本土の末盧国へ上陸である。末盧国には官職名の記事がなく、上陸しただけの通過点といった趣もあるので、今回は一気に伊都国まで歩を進める。 ●又、一海を渡る、千余里。末盧国に至る。四千余戸あり。山海に浜(そ)うている。草木茂盛し行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕え水の深浅と無く皆沈没して之を取る。 ●東南陸行、五百里、伊都国に到る。・・千余戸あり。世に王あるも皆、女王国に統、属…

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13. 対海国から一大国

一大国は紹熙本、紹興本ともに「一大国」と表記されているが、今の壱岐である。楠原佑介氏が一大国は壱岐に多く見られる「石田」という地名や有力者の名を中国人が「いだ」と聞いたと記している(『地名学が解いた邪馬台国』)。この説に私も賛同しているが、同じ数字の「イチ」である「壹」と「一」を陳寿は使い分けている。これは「なぜ?」というのが前記「邪馬壹国」の国名解明につながったのだが、詳しくは後述する。 ●又…

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12.狗邪韓国から対海国

さて、対海国である。ガイドブックには次のように記載されている。 ●始めて一海を度(わた)る、千余里、対海国に至る。・・居る所絶島、方四百余里可。土地は山険しく深林多く道路は禽鹿(きんろく)の径のごとし。千余戸あり・・。 12.1 対海国(対馬) ガイド文に方向がないが、次の一大国に向かう時の「又南、一海を渡る」の「又」から、その前文の対海国も南だったことがわかる。添付図のようにこの間には対馬海…

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11. 帯方から倭の狗邪韓国へ

さて、帯方から邪馬壹国へガイドブックの倭人伝を片手に「水行十日陸行一月」の長旅に出発である。距離は短里(77m/里)を使う。先ずは帯方から倭の狗邪韓国に向かう。添付図のように、道は水陸併用である。 ●「(帯方)郡より倭へ至るには海岸に循(したが)いて水行し韓国を歴(すぎ)て 乍(たちま)ち南し乍ち東し、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里」。 13.1 帯方郡と狗邪韓国 帯方郡は平壌南の沙里院付…

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10.倭人伝の里程解読1

倭人伝の里程解読をするにあたって、前提条件を示す。 10.1倭人伝は事実の記録である   倭人伝が含まれる魏志東夷伝の序文に「九服の制度に含まれる地域については、確かな根拠をもってそれを述べることが可能なのである」と陳寿は記している。「親魏倭王」の称号をもらった卑弥呼の邪馬壹国は魏の「九服の制度」に入ったのであり、実際に魏使が来倭している。また、後述する「卑弥呼の鏡」に刻まれた「九重の円」模様…

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9.邪馬台国論争の変遷2

前回、大正時代までを概観した。倭人伝の道筋を連続してつなぐ説は、比定した国の地理的関係が満足できない。また、倭人伝の邪馬壹国の「壹」が「臺」、「台」に変化したのは、皇国史観の影響もあるのだろうが単に後漢書の「邪馬臺」が「ヤマト」と読めるだけで、深い考察がなされたものではないようである。昭和以降の説はどうだろうか。 ⓽『邪馬台国は福岡県山門郡にあらず』1927(昭和2)年、安藤正直。道筋放射説の…

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邪馬台国論争の変遷

倭人伝解読の詳細に入る前に、過去の説を振り返ってみる。邦光史郎氏の『邪馬台国の旅』を参考にして整理した。 ① 『日本書紀』(720年)が「魏志曰く」と倭人伝を引く。但し、朝貢が景初3年と記さ れており、書紀の編者は景初2年と記した正統な魏志を見ていない可能性あり、と私は考えている。ともあれ書紀の景初3年が正しいとなって、倭人伝にも誤記があるとの根拠を後世に与え、倭人伝の文字や数字が軽く改訂され…

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7.魏略から倭人伝を考える

前回は、邪馬壹国へ至る全道筋を示したが、これから倭人伝に隠された「陳寿の仕掛け」を読み解きながら、その細部を見ていくことにする。その前に、高天原からアマテラスも見ていたであろう邪馬壹国の姿を添付図に示す。九州北部の緑の山々に囲まれた平野に女王国が広がり、その南に狗奴国があった。さて、『魏略』という史書に倭人伝と同じような里程記事がある。今回は、倭人伝の原典とも云われていた『魏略』と倭人伝を比較し…

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6.倭人伝の真実 邪馬台国へ至る道筋

最近、東大の白鳥庫吉氏の『倭女王 卑弥呼考』を読んだ。道筋について、陳寿が仕掛けた細かい部分を見落としているようであるし、「里の長さがおかしい!」と思いつつも短里を採用できなかったゆえに、中途半端な論考になっている。  さて、魏志の237年から249年の記事に明確な長里はなかった。さらに、正始年間(240~249)の記録が基である東夷伝の韓伝までは短里であった。今回は東夷伝の最終条となる倭人伝の…

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狗邪韓国は倭の領域だった

5.狗(く)邪(や)韓国は「倭の領域」である 倭人伝の里程で最初の国、狗邪韓国が倭か韓なのか、はっきりしていない。今回は狗邪韓国が倭の領域だったことを漢字の「歴」と「与」から考える。 狗邪韓国は、倭人伝に次のように記されている。 ① 倭人は帯方(郡)の東南大海の中にあり山島によりて国邑(こくゆう)をなす。郡より倭へ至るには海岸に循(したが)いて水行し韓を歴(すぎ)て乍(たちま)ち南し乍ち東し、そ…

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魏志東夷伝の短里を考える

4.陳寿の「仕掛け」ー「与」 魏志の中で237年以降の里程に明帝の短里があることを説明した。東夷伝も245年の遠征軍による記録が基になっているので短里の可能性が高い。今回は漢字一文字で東夷伝の短里が説明できることを紹介する。  東夷伝には夫余、高句麗、沃沮、挹婁に里程があり、更に各国が互いに接していると記されている。この里程を長里で見ると、高句麗の領域は日本海まではみ出してしまう。かといって、短…

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三国志の長短里混在の理由

3.4三国志での長短里混在理由と陳寿の仕掛け  前回、短里の存在が証明されていること、三国志の中で長短里が混在している理由として半沢氏の「明帝の改暦」説を紹介した。さらに、この改暦説には明帝自身の言葉、「四千里彼方の征伐」の障壁があることを説明した。  この障壁とは、洛陽から遼東(遼陽)までの距離が約1400kmで短里とすると18000里となって合わない。長里から短里に制度を変えたはずの明帝自身…

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倭人伝の真実に迫る

3.短里問題を「陳寿の仕掛け」から解決する  邪馬台国論争で今の最大の課題は、いわゆる短里問題で倭人伝を短里で解釈してよいのかどうかである。倭人伝の里程は短里で記されていると思っているのだが、短里を学会が公認していない。短里であれば、邪馬壹国は九州で決まる。 学会以外は短里の存在を認める論者が多く私も短里の存在を確信し、その証拠を三国志 の中で見つけて証明しようと四苦八苦していた。しかし、よく考…

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倭人伝の真実に迫る

2.2曹爽の作戦  前回の経緯表のなかで景初2年が243年となっていた。238年が正しいので、訂正しました。 さて、前回の卑弥呼朝貢前後の経緯の中で見つけた「何かおかしいこと」を考えていくと、曹爽と司馬懿の権力争いの物語が見えてくる。  魏を滅ぼした西晋の立役者、司馬懿は有名だが曹爽はあまり知られていないだろう。曹爽は王族で明帝の信任厚く、当時の権力者であった司馬懿を追い落とそうとしていた。この…

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倭人伝の真実に迫る

2.卑弥呼と謎の四世紀   中国の歴史書から日本の記事がすっぽりと抜ける時代があり「謎の四世紀」といわれている。それは『晋書』の266年の倭国朝貢記事を最後に同書の413年の朝貢記事まで150年もの間、つまり四世紀の記事が全く記されていない。これはなぜ?という答えが全くわかっていないので「謎」とされている。今回は、卑弥呼と魏の関係について考え、「謎の四世紀」の原因に迫っていくことにする。 卑弥呼…

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倭人伝の真実に迫る

コロナによる外出自粛中で三国志の訳本、筑摩書房の「正史三国志」を読み直しているが、面白い。それは、今まで自分の中で構築していた魏志倭人伝や陳寿のイメージが変わってきたからである。邪馬台国論争で争われている「謎」は倭人伝のみならず三国志本伝の中にも、それを解く鍵が記されていることが改めてわかってきた。倭人伝が「おとぎ話で信じられない」という説も多い。しかしながら、そうではないことが本伝からも読みと…