『秋待ち喫茶』
『こんな店、あったかな?』 『多分、夏までは、なかった」 『じゃあ、新しい店なんだね」 『いや、そうでもないみたいだけどね」 『そうでもないって、どういう意味?」 『入ってみれば、わかるんじゃない』 『そうだね、ちょっと甘いもの食べたいって思ってたから』 『あなたって、相変わらず甘党なのね』 『そう、これは、治らない』 『仕方ないから、付き合うわ』 ふたりを迎えたカウンターの中のママの顔が、懐か…
『こんな店、あったかな?』 『多分、夏までは、なかった」 『じゃあ、新しい店なんだね」 『いや、そうでもないみたいだけどね」 『そうでもないって、どういう意味?」 『入ってみれば、わかるんじゃない』 『そうだね、ちょっと甘いもの食べたいって思ってたから』 『あなたって、相変わらず甘党なのね』 『そう、これは、治らない』 『仕方ないから、付き合うわ』 ふたりを迎えたカウンターの中のママの顔が、懐か…
朝も、夜も、秋があふれてくる今頃になると、夏がいなくなる寂しさを感じる。 でも、そんなこと思っても、仕方ないってことも、わかっている。 だから、夜になると、路地裏に坂道だらけの街に住んでる俺の夜散歩が始まる。 今夜も、お気に入りの裏坂道を、ゆっくりと歩こう。 月がきれいなあの夜に出逢ったショートヘアの彼女、そう言えば、この街に、また、来てるらしい。 久しぶりに、逢えそうな気がする。 そう、気がす…
他人なんだけど、なんか、似てるってこと、ある。 兄弟じゃないけど、他人に思えないやつも、たまに、いる。 教会が多いこの町に住んで、俺も、ずいぶん長くなったけど、あいつは、女だけど、弟って感じだった。 それも、ずっと昔、昔のことだ。 教会の鐘の音が聞こえる坂道を上りあがったところに、あいつのカウンターだけの店があった。 そう、もう、今はない。 『待ってたよ』 そう言って、いつものグラスを、出してく…
なりたいものになれなくて、がくっとくるのは、いつものことだ、俺にとって。 もう、どこまでも遠いことだと、今は、思っている。 後悔の川は、まだ、俺の心の中で、流れている。 それぐらいは、いいよなって、この石橋の下の川面を見つめてつぶやく。 俺の住んでる石橋だらけのこの街に、ずいぶんと前、歌手くずれのある女が、いた。 そう、もういないけど。 『お兄さん、歌手ごっこしない?』 『なんだよ、それ』 『あ…
いつもの道は、安全だけど、たまに、それはやめとこうと思う時がある。 近道が好きだけど、今日は、ちょっと遠回りでもいいかって、思う時もある。 忘れるくらいずっと前、そんな気分になった秋があった。 俺の住んでる港町の、波止場近くの裏道に、その店がある。 多分、今でも、あると思う。 あの日から、一度も行ってないので、確かなことはわからないが。 飲みたいわけじゃなかったけど、まっすぐ帰るには、惜しいよう…
忘れていないから、思い出すんだろう。 わかってるような口を聞いてみたくなる。 でも、どれくらい前かなんて、もう覚えていない。 いい加減なものだ。 俺が住んでる坂の街に、まだ、あいつの絵が、飾ってある喫茶店があった。 そう、あっただ。 だから、今は、ないってこと。 あいつが、いっぱい描いていたったことは、俺は、痛いほど、知っている。 なのに、あいつの絵は、その喫茶店にあった一枚切りに、なってしま…
昼間は、晴れもあったのに、やはり雨だ。 仕方ないから、送り火も、心の中で、カチッと火を入れる。 いつでもひとりだが、なんか、お盆は、静かな気分になってくる。 いつもより、もっと、静かな気持ちになるんだよね。 煮物作ったけど、ちょっと味が、濃ゆかった。 まあ、それも、いいかなって気分だ。 頑張って、かき揚げも作った。 つゆにつけて、うまかった。 今夜も、回り灯篭が、お盆を盛り上げている。 明日まで…
まだ、すごい風が吹いている。もちろん、雨も、ジャンジャンだ。 いつ止むか、わからないってやつだ。 よって、十三日の迎え火も、しなかった。 だから、心の中の蝋燭に、カチッと火を入れた。 親父やおふくろ、それから、いろんなみんなみんな、来てくれてるかな。 今から、焼きそばでも、作るかな。 お盆にも、焼きそばかよって、突っ込みの声も、聞こえるけど、俺らしくて、いいかなと思ってる。
『短くしたね』 『そう、暑いから』 『ちょっとアンバランスなところがいいね』 『そう、いつもアンバランスなの』 『君らしくて、いいよ』 『きれいに出来ないのよね」 『いつもきれいじゃ、つまんないよ』 『そうかしら』 『そう、アンバランス最高!」 『誉め言葉として、受け取っておくわ』 彼女は、いつも自分で髪切り姫を演じている。 そんな彼女を、彼も、嫌いじゃないらしい。
『もう、起きてる?』 『起きてるから、こうやって話してる』 『そうね』 『どうした?』 『どうもしない』 『そんなわけないと思うけど』 『そうなんだけど』 『言ってみろよ」 『うん、じゃあ言うわ。笑わないでね』 『笑おうかな』 『いいわよ。好きなだけ、笑って』 『冗談、冗談、早く、言えよ』 『明日、庭にいる私を見て、それだけ』 そう言うと、彼女は、静かに電話を切った。 くすっと笑う彼の部屋の窓越…
『元気だったみたいだね』 『まあね』 『飲んでるね』 『暮れからだから、ずっと酔ってるわ』 『俺は、今日は、まだ飲んでない』 『じゃあ、これからね』 『そう、君の声を肴にかな』 『こんなガラガラ声で、いいのかしら」 『ハスキーボイスは、冷たいグラスに、よく響くんだよ」 『なんか、変な理屈だけど、じゃあ、今から、あの歌、歌おうかな』 『そうくると思ってたんだ』 ふたりには、想い出の歌があるのだろう…
『あら、また』 『そう、また』 『誰もいないわよ』 『わかってるさ、だから』 『ひまつぶし?』 『違うよ』 『淋しいから?』 『それも、ちょっと違うかな』 『じゃあ、私の声が聞きたいから?』 『今から、独り言言うから、聞いてよ』 『何、それ』 『いいから、聞いて』 『変なの、でも、どうぞ』 『これからも好き』 彼女も、心の中で、私もって、答えていると感じながら、彼は、まだ蒸し暑い空を見ていた。
『花火、珍しいな』 『ほんと、やっぱ、なんか、うれしいよね』 たった数本の手持ち花火だったけど、そんな声が聞こえてきたような気がする15日の夜だった。 きっと、来てくれたよね。 たいしたもの作れなかったけど、食べてくれたかな。 信心深いわけじゃないけど、お盆になると、静かな気持ちになってくる。 独りの夏の夜も、そんなに悪くないって、暑い空を見上げて、いつも思ってる自分がいる。
『どうしたの?』 『どうもしない』 『何、言ってるの。そんなわけないじゃない』 『声、聞きたくて』 『あら、うれしいこと言ってくれるじゃない』 『そのクールな声が、聞きたかったんだよ』 『それだけ?』 『実は、もうひとつ』 『やっぱりね』 『もうすぐ梅雨明けみたいだから、明るい太陽の下で、逢わないか』 『夏のギラギラ太陽もいいかもね』 彼女は、ふふっと笑った。 彼も、微笑みながら、窓の外の静かな…
『何してた?』 『本、読んでた』 『目の前にグラスは?』 『ないわよ。 マグカップはあるけど』 『寝酒、止めたの?』 『そう。 ホットミルクにしてるの』 『君が、ホットミルクね』 『可笑しい?』 『いや、そんなことはない。 いいなって感じ』 『で、あなたは?』 『俺、俺は、ホット』 『ウイスキーでしょ』 『よくわかるねえ。 見えてる?』 『後ろで、風の音がするから』 春でも、声の向こうで、不思議…
『どこ、行ってたの?』 『遠い故郷』 『ひとりで?』 『当たり前よ。誰も、いないわ』 『長かったね』 『そうね、ほぼ、一か月だものね』 『淋しかったなあ』 『ほんと?』 『帰ってこないんじゃないかって』 『でも、ちゃんと帰ってきたでしょ』 『ああ、だから、うれしい夜になりそうだ』 『はい、ちょっと早いけど』 そう言うと、彼女は、真っ赤な包みの箱を、彼の前に置いた。 中身は、彼の好きなあのウイスキ…
『何、これ?』 『だから、ケーキよ』 『それは、わかってるけど、この店には』 『合わないって』 『そう、ここは、お酒を飲むところだからね』 『わかってる、だから、今夜だけよ』 『今夜だけ?』 『そこの角の、スーパーで、たったの五百円よ。賞味期限が、今日までだから』 『だから?』 『だから、手伝って』 『手伝ってか」 『私のクリスマスの夢に、付き合って』 『よし、分かった。付き合うよ』 笑ってる彼…
『聞いたことないね』 『だから、いいのよ』 『誰の唄?』 『知らない。 でも、いいでしょ』 『うん、悪くない』 『だから、いいでしょ』 『うん、だから、悪くない』 『強情なんだから』 意地っ張りの女を見つめる男の目は、なんとなく優しい。 店の外の風の中で、風来坊が歌うブルースが、いつまでも、聞こえている。
『風の店だって』 『しゃれた名前ね』 『入ってみる?』 『いや、今日は、やめとく』 『そうだね、今度の楽しみにって感じ?』 『そう、またふたりで、この坂を上ってくる楽しみの為に、とっておくわ』 『俺たちに、今度もあるってこと?』 『今日みたいな風が吹いていたら』 それっきり、彼女は、何にも言わない。 風が、彼女の前髪を、静かに揺らす午後が、過ぎてゆく。
『風、あんまり吹かなかったね』 『それで、よかったのよ』 『まあ、そうだけど』 『あんまり、ひどいとみんな、困ってしまうからね』 『みんなって、誰?』 『みんなは、みんなよ。 色々よ』 『帰省の人か、なんか』 『あんたは、長生きする。 当分、お呼びは、かからない』 『なんか、よくわかんねえな』 きっと見ていてくれると思うので、今夜、もう一晩回り灯篭の灯りをつけてみよう。